2023年9月19日火曜日

絵本の強さについて

デジタル化で次第に必要性が薄らいできた紙媒体の中で、絵本はもう少し残してほしいと思う。絵本は書籍でありながら、子供が絵を眺めページをめくる手触りや音という大切な要素も持っている。字が少ないだけメッセージが強く頭に残り、いつ誰にどんな状況で読んでもらったか自分で読んだかの記憶も加わって強烈な印象が刻まれる。最近ヒットする新刊の絵本について気になることがある。絵が可愛いから涙が出るから若い親たちにウケるだろうではなく、出版社は絵本の影響力の大きさを理解して内容を吟味し、責任を持って世に出してほしい。

先日、偶然『もうじきたべられるぼく』(はせがわゆうじ 中央公論新社2022)という紙芝居様の動画を目にした。なんでもTikTokで300万回再生されたそうで、書籍化されて第7回未来屋えほん大賞を受賞。やさしさに感動した、と称賛を送っている方々に真っ向から反対はしないけれど、中途半端な擬人化にものすごくモヤモヤしている。

ある子牛が「ぼくはうしだから もうじきたべられる」といって、一目お母さんに会いたくなり汽車に乗って田舎の牧場へ行く。そこで母牛が新たに子牛を育てているのを見て、ぼくがもうすぐ食べられるのを知らせたら母牛が悲しむかもしれないと思い、声をかけずに帰りの汽車に乗る。母牛は汽車に我が子がいるのに気づいて走って追いかけるが声は届かない。「せめてぼくをたべた人が 自分のいのちを大切にしてくれたらいいな」

人の心の中を引っ掻き回して無理やり涙を引き出す系、と酷評したら大炎上するのは分かっている。可愛らしい子牛の絵を使って、人間の残虐さを強調しその肉食習慣を批判、家畜への感謝を求め、それが自分や他人の命の尊重になるという説法的な締めくくりに頭は混乱するばかりだ。知的で思いやりに溢れた子牛が、世を達観して運命を拒まず、人間の幸せを願って自己を犠牲にするのが涙をそそるらしいけれど。…これちょっと、お肉食べにくいですね。ファンタジーとはいえ言葉を話し切符を買って汽車で移動する優しい「ぼく」を食肉センターでお肉にするについて、多くの人のように「泣ける」ならモヤモヤしない。

一般に人工授精で産まれてきた子牛はすぐ母牛から引き離され、屠殺場で死ぬ時まで人に食われるなんて考えもせずただ生きるために草を食べている。まして牛が自己犠牲でお肉になる筈もなく、人間のする自殺や殺し合いを諌めるような存在でもない。肉用牛の繁殖・肥育に従事する農家の人、あるいは食肉センターで働く人はこの絵本を見てどのように思われるだろうか。ビーガンは喜ぶだろうが、これを世界主要7ヶ国語に翻訳したら露骨に嫌悪感を表されるだろう。

この絵本を読んだ後、夕飯にハンバーグを焼いて「うしさんありがとう🎵」とか言いながら親子で食べる光景が目に浮かぶ。親も子もありがとうを言ったから万事OK、と満足して美味しそうに肉を頬張るのだろう。

もちろん食べ物への感謝がいけない訳ではない。殺生をして生かされていることに気づき、感謝して食べ物を粗末にしない、これで良いと思う。宗教はあってもなくても「何か神秘的なもの」に感謝することはできる。「すまないね」と胸が痛んだとしても感動で泣くようなテーマではないし、家畜を「かわいそう」というのは人間のエゴである。

何がモヤモヤするか整理すると、まず牛を擬人化させる意味が理解できない。家畜も人も同じように知性や感情があり、命の重さが同じであるとすれば、感謝しさえすれば人も家畜のように犠牲にして良いことにならないか。上手く言えないが単純に気持ちが悪い。情操教育や食育にもおすすめって、感想をAIに書かせているんじゃないでしょうか。 次に、汽車を見送って最後の別れをするシーンでどうしても先の戦争を思い浮かべてしまう。見た訳じゃないけど、私は古い人間なんだろうか… 

米国のLGBT団体が子供に創作絵本の読み聞かせをやっていて、地元住民と対立しているとの報道を見た。絵本にするとメッセージ性が高くなるのを知っているのだ。本気で絵本というメディアに目を光らせ、良からぬものを遠ざける力を養いたい。



ぼくの好きなおじさん

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