2020年11月25日水曜日

愛しのアマポーラ

 この家に引っ越してきた頃、手入れの悪い生垣がフェンスを覆っていたので何年か後にすべて根元から切ってしまった。すると今まで日の当たらなかった地面から雑草が生えてきたので、何かグランドカバーになる植物をと思って色々植えてきた。ここ何年かは空き地用のミックスフラワーの種を秋に蒔いておいて、春から初夏にかけて色々な草花を咲かせている。不思議な形のした種もあって種まきも楽しいし、名前も知らない草花が次々咲いて面白い。繁殖力の強いものは、こぼれ種で殖えて年中小さな花をつけたりする。

種を蒔くと雑草の芽と区別がつかなくなって、これもまた成長して花をつけたりして抜くタイミングが遅れたりする。外来種で駆除が推奨されているナガミヒナゲシなどもオレンジ色のかわいい花をつけたりするが、ケシだけに細かい種を撒き散らしコンクリートの隙間でも立派に咲く驚くべき繁殖力を見せてくれる。ミックスフラワーに入っているヒナゲシは品種改良のせいかそれほど繁殖力はないようだが、アグネスチャンが歌っていた丘に咲くヒナゲシは雑草レベルのたくましさに違いない。私はあんぱんの上にのっているケシの実が好きだ。

ヒナゲシは漢字で雛芥子、別名で虞美人草、英語でpoppy、仏語でCoquelicot、スペイン語でAmapolaである。夏目漱石の小説では虞美人という名前に影響されてか不健康な艶っぽい女のイメージでタイトルに採用されたようだが、ヨーロッパ系の言葉からは若くて元気いっぱいな感じがする。ポピーはつぼみが弾けるように咲くことから、コクリコは雄鶏のとさかだとか。赤とか黄色とかはっきりした色で、ペラペラヒラヒラした花弁が細い茎の先でフラフラ揺れているのは軽薄な感じでもある。

アマポーラは何故か真っ先に山下達郎を思い浮かべてしまったのだけど、スペイン出身の作曲家ホセ・ラカジェが1924年に発表したポップ・ミュージックで多くの人がカバーしている。言わずものがなヒナゲシの花を愛しい人に見立てたラブソングで、テレビCMで沢田研二が歌ったり、ロバート=デニーロ主演のギャング映画『Once upon a time in America』でエンリオ=モリコーネが挿入歌として甘くまったりと編曲したのが大ヒットした。テノール歌手が朗々と歌うならば、これはもう抱え切れないほどの花束にしてもらおう。




2020年11月23日月曜日

今年は何を観ようかな

めんどくさがりの私でもクリスマスにはツリーを飾って、子供たちに見つからないようにプレゼントをそっと置くみたいなことを10年くらいした。ある年からボク達もサンタクロースがどういう存在なのか分かってきた時点で、悪いなと思いながら卒業させてもらった。一応、私がサンタからプレゼントを用意するように頼まれたということにして。

その昔、通っていた学校はミッションスクールだったのでクリスマスのミサ(実際にはクリスマスはキリストのミサという意味だからおかしな表現である)が行われ、4階建ての校舎よりまだ高いヒマラヤ杉に色とりどりの電球が灯り、聖堂でキャロルを歌ったりした。

私は信者でも何でもないので卒業してしまえば日本のアニミズムに戻るだけなのだが、一応文化の一つとしてクリスマスには宗教的な事を一つ取り入れたいと思っている。ここ数年はキリスト教やクリスマスに関する映画をひとつみるというのをやっていて、昨年はウィレム=デフォー主演の『最後の誘惑』(1988 米)にした。この映画の中でキリストは普通に弱っちい一人の男であり、人として当たり前の幸せと神から与えられた使命との葛藤に苦しむ。

京都のこじんまりとしたミニシアターでこれを見た時、誰かを好きになって結婚して家庭を持ち子育てをする、そんなありふれた人生が死ぬほど愛おしい誘惑になり得ることが衝撃であった。数奇な人生を選び、多くの人を導き大きな事を成し遂げることができたなら、当然満足感と達成感を味わえるだろうと思っていただけに。

何かの目的のために「当たり前」の幸せが得られなかったのなら諦めもつくが、現実には両方得られる人がいる一方でどちらも得られなかった人が存在するものだ。そういうどうしようもない不条理に、キリスト自身がありふれた幸せも賞賛も得られなかったからこそ、腐らず生きていく一筋の光を示すのだろう。キリストを神格化するより、こうした物議を醸すような異端の解釈の方がしっくりくるのは、やはりアニミズム的発想が根っこにあるせいかもしれない。



2020年11月21日土曜日

手をつけない理由

息子が大学生になると、自然と自分が学生だった頃の記憶が蘇ってくる。冬、四回生の先輩たちの卒論の手伝いに行くのが恒例行事だった。凍えるようなプレハブの実習室は石油ストーブの周りだけが暖かく、すぐに手がかじかんだ。コピーを取ったり図面を切り抜いたりといった作業をするのは楽しく、休憩に缶コーヒーをもらったり一緒に夕飯を食べに行ったりした。

さて自分の卒業論文の研究テーマ選びとなった時、どうやって決めたかあまり記憶に残っていない。おそらく先生が講義の中で断片的に話されたことを拾って、その中から形になりそうなものを選んだのだろう。そして次第に当初のものとかけ離れてきたりするから、中間発表で講師の先生に、「調べてきたのは分かるけど、何が言いたいのかなあ」なんて言われてしまう。

そもそも先生の雑談からこぼれたテーマを拾っている段階で先が見えているのかもしれない。今思えば先生も、これは自分がやるには体裁が悪いし今ひとつだなと思って手をつけていなかったに違いない。もっと性格が悪ければ芳しくない成績をつけながら、自分の見立て通りやっぱりダメだったな、なんて意地悪く思っているかもしれない。

これが修士論文や博士論文になると、先生としても自分の分身やライバル浮上に心穏やかでない時もあるだろう。若い人は生活もかかっているから必死だし、先生もあわよくば自分の手柄にできないかヒリヒリハラハラの世界へようこそである。わざと倫理観に欠いた実験をさせたり責任を取らせたりするのは小説の中だけだろうか。

ほとんどその後に役立つことはなかったけれど、もし高校を卒業して地元で暮らしていたら見ることもない景色だった。そういう意味では進学させてもらって親に感謝!である。

2020年11月18日水曜日

色のない世界から

図らずもふたりの息子を授かり、乳児から幼児、児童になるにしたがって戸惑うこともいろいろあったが、男の子というもののへ偏見を少しずつ修正させながら一緒に歩んできた。家庭に子供がいると自然と絵本や児童書に手が伸びて、自分も含めてそれぞれの性格や個性、嗜好を考える機会を得ることができる。またそうした環境を与えてくれた人たちに心から感謝したい。

児童書でも中高生向けに書かれた小説に『カラフル』(森 絵都 1998)がある。以前、野苺のことで『西の魔女が死んだ』(梨木香歩)を挙げたが、こちらが女子向けとすると『カラフル』は男子に寄り添った内容になる。

【内容情報】生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。真として過ごすうち、ぼくは人の欠点や美点が見えてくるようになるのだが…。(「BOOK」データベースより)

家庭不和、不倫、援助交際、いじめ、自殺とシビアな現実に、今どきの高校生の一種の軽さが共感を呼ぶのか現在59刷22万部のロングセラーで文庫は初版で12万部というからすごい。読み手はだんだん分かってくるのだが、主人公のぼくは自らが自殺した真の魂であることに気付く。自分で自分を殺した罪に気付き、色のない世界から美醜明暗様々な色でひしめく世界へ踏み出していく。

若い人にはどうしても少し前の流行が古臭く感じられるだろうから、こんな不穏な世の中にまたこうした作品が新しく生まれてきて欲しいと思う。

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2020年11月15日日曜日

マッチングの夜明けぜよ

マッチングアプリというものが流行している。コロナ禍も影響してなかなか普段の生活で男女の出会いが少ないこと、スマホを使って写真や動画で情報発信することに余りに抵抗がなくなったことの現れかと思う。ちょっと検索しただけで100サイトの中から優良18サイトをご紹介!などという記事が出てきたり、未成年の冷やかし中心で危険な出会い系から真面目に結婚相手を探す目的のものまで玉石混交というがどこまで本当なのか分からない。

総じて容姿良く加工された写真が掲載され、年齢や趣味などから興味を持った旨のサインを出し、相手も興味を持ったらメッセージ交換とかになるのだろうか。ここでもやはり加工されたとはいえ写真が重要だ。そもそも見合いは釣書に写真がなくては始まらない。

ところで所謂まじめなマッチングサイトでどれくらいの人がマッチングして、おつきあいに発展するのだろう。昔の見合いは親戚のおばさんの顔を立てて気分は乗らないんだけど〜みたいな甘えを引きずってでも成立した。私の頃にはもう見合いはごく少数派でそれゆえ一層、ご立派とは言い難い経歴に気に入らない写真をつけて、屈辱感を押し殺して臨んだ。結婚したいから相手を探すのは順番が逆だと思っても、それが社会の一員として認められる事だと暗に言い含められて。

一方サイトから自分で選んだ経歴と容姿の持ち主と会うということは、ストレートに自分の商品価値を晒すだけに昔の見合いより緊張するんじゃないかと思う。中には全然気にしないで直感的に選ぶ人もいるだろうから一概には言えないが、多くの人がストレスを感じながら利用しているのではと思う。家族が欲しい、子供が欲しい。要求が一致すなわちマッチングと、そう簡単にいくものだろうか。見合いの回数は増やせても色眼鏡をいくつもかけた状態では本当の意味での出会いにならないと思う。

世間一般的にビジュアル点の低い人はこうしたサイトでは圧倒的に不利だが、実際の恋愛の世界では必ずしもそうではない。見た目不利な人ほど実践で荒波にもまれるから魅力的になれる可能性もある。今後、仮想現実はより現実に近づいていくのだろうし、マッチングサイトもまだまだ黎明期といえるのかもしれない。



2020年11月13日金曜日

名は体を

 名付けに古風な名前を選ぶ家庭が増えているとかで、令和生まれにして「和子」とか「はつゑ」「民子」なんてのをまとめてシワシワネームというそうで。これは少し前の「光=ピカ」「宙=そら」といったキラキラネームに対する言葉である。アラフィフの私の頃は、女の子といえば「直子」「恵子」「朋子」など圧倒的に○子が主流だった。不思議なことに○子だと結婚して姓が変わってもそんなに音便や字面が悪くなることもないのだ。「オダ マリ」さんや、「マキ マキ」さんになっても、子が付いていればそう気にならないと思う。

曽祖母にあたる人は、元から姓と名前が一致している。仮に姓が「吉川」だとすると名前は「ヨシ」。「ヨシカワヨシ」これはいくら明治時代でもからかいの対象に為りかねないのでは。まったく親のセンスが疑われる。尤もヨシには兄がいて当然嫁に行ったら婚家の姓を名乗るから何でもいいと思ったか、それとも実家の意思を継いで欲しいと言う願いからか。

ところがその願いは図らずも叶えられてしまう。兄が商いの関係で大陸へ行って家を継がぬことになり、ヨシは婿養子を取る。お相手の正太郎(仮)はなかなかのイケメンだったらしく、縁談はあっさりまとまり一男一女を儲け幸せに暮らした、のであれば良いが。

このイケメン正太郎君は他にも家庭を作っており、あろうことかほぼ同時進行で一男一女を儲けておったのでした。事の次第を知ったヨシカワヨシの父は烈火の如く怒り、正太郎との離縁を要求する。ところがヨシさんは抵抗したということである。その後については親類中あまり詳しく語ってくれないので詳細は不明なのだが、正太郎の面影を受け継いだであろうヨシの息子(私の祖父)も面食いの祖母の目に留まったというから、当時ではイケメンだったのかもしれない。父親の名前を一字もらったが性格は違ったようで、家庭に冷たくDVの話ばかり聞く。若い頃清元を嗜んだというから粋な面もあったのだろうか、私の知る限り表情のあまりない静かな老人だった。

名前は自分では選べないだけに、本人が気に入ってくれるものを付けてやりたい。画数もほどよく字面もいいものを。○○さん、と愛を込めて呼んでもらえるような名前を。


2020年11月3日火曜日

ハイカカオコロニアル紀行

 カカオ豆の価格が高騰すると言われながらカカオ含有量の多いチョコレートが人気である。入手困難と思うほど欲しくなるのが人情で、産地別に食べ比べしたくなったりする。ワインのことは分からないがコーヒーなら多少飲み比べもしたので、チョコレートも違いが分かるかもしれない。

日本が輸入するカカオ豆の約7割を占めるのがガーナ産で、他にはコートジボアール産、ベネズエラ産、エクアドル産が入ってくる。珍しいところでブラジル、キューバ、ドミニカ共和国、ベトナム、と赤道を中心にコーヒーが育つ緯度の国々ならカカオの栽培はできるようだ。

ブラジル産というチョコを試食してみた感想。食べ慣れた味とあまりに違うので「えっ!」という驚きがあった。練り具合や温度などでも違ってくるのだろうが、強い野趣味と動物的な香り?がブラジルの特徴なのだろう。コーヒーでもモカは酸味が強いとか、ブルーマウンテンはバランスが取れてベトナムはローストが独特というような特徴を専門家が沢山書いているが、素人は好き嫌いで選ぶのみ。今のところナッツ感のあるベネズエラに軍配をあげたい。

コーヒー、紅茶、チョコレート、タバコ、砂糖と欧州が大航海時代以降植民地で手に入れた嗜好品には、味や香りやアルカロイドの効果以外に異国への強烈な憧れと野心がかぶさってくる。毒か、薬か、無意識に海の向こうのパワーを取り込むべくチョコレートを食べるのではないだろうか。ホテルのインテリアなどでコロニアルスタイルとか、本当に意味わかって言ってるんかと思いつつ、富が集中すれば不幸な歴史を忘れるほど魅力的なものが生まれるのも事実。嗜好品は少々高くても我慢して量はほどほどに。

植民地ときて思い出した映画『ピアノ・レッスン』(The Piano 1993年 参考:映画ウォッチ)19世紀スコットランドから写真一つで未開の地ニュージーランドに嫁いでくる女性の話。女性は失語症で話せないし連れ子もいる。ピアノだけは手放したくないと無理を言って船に乗せて嫁いでくるが、夫はピアノなんて重い物持ってくるなと運んでくれない。現地人に同化した不思議な男が浜で弾く女性の姿に惹かれ、ピアノを夫から土地と交換で買い取って黒鍵の数のレッスンを条件に返却する約束をする。

当時学生だった私はR指定のラブシーンもさることながら、指を切り落とすいう強烈なDVがあまりにショックでその後の内容がおぼろげになってしまっている。本当の見所はそこでなくて、最終的に和解してからの新たな展開の部分だ。カヌーからピアノを海に沈め共に心中すると思いきや、引き揚げられて男と娘の三人で新しい生活へ向かう。北の町で擬指をはめて新しいピアノを軽快に弾く姿は、ひたすらに粘り強い。






2020年11月1日日曜日

人に頼る自立生活

『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史 2003年)を読んでいる。映画化もされて予告を見て気にはなっていたが、筋ジストロフィーの男性のわがままぶりを面白おかしく描いた小説かと思い長らく忘れていた。偶然書店で文庫版を手にして、脚色のないノンフィクションであることを知った。また著者の「障害」「障がい」「障碍」の表記に対する考えに共通する、本質を見極めようとする姿勢が気に入ってしまい、そのままレジに向かった。

難病患者でありながら施設から飛び出し、ボランティアとの自立生活を実現させてしまった人が本当にいたんだと、素直に驚いてしまう。筋ジス、鹿野靖明がそうした発想に至ったのは障害者運動に関わり、北欧やアメリカの「ノーマライゼーション」=生活条件をノーマルに の理念を学んだからであり、ただ自分に向き合っているだけではできなかった。

もちろん死にたくなったことなど何度もあると言うが、身体が効かなくなればなるほど精神はたくましくなり、鹿野のケア付き住宅に集うボランティア達も次々と何かを学んで成長していく。障害者運動で知り合った女性との結婚は破綻するし、人工呼吸器をつけた頃の体調や、経済的なことも安定とは程遠い。それでも鹿野はいつだって堂々とボランティアに指示を出す、やたら偉そうで人間臭いエッチなおじさんである。

共生による孤立しない自立生活、精神的な自立。言葉に置き換えても伝わらない時は伝わらない。具体から抽象へ、抽象から具体へ少しずつ本質に向かっていく作業が必要だ。大して役に立たなくても、お金にならなくても、やっぱり人生に学びがあれば豊かになるし、助けになってくれると思う。学びが鹿野を意味のある延命へと導いたと言っていい。

本の帯を見ると映画のブルーレイ&DVDの宣伝があって、主役の大泉洋と高畑充希に並んで数ヶ月前自殺した三浦春馬が笑っている。真面目な俳優だったと言うからこの本だって一読くらいはしたろうにと思うと残念でならない。

<追記>三浦春馬について付け加える。『僕のいた時間』(2014年フジテレビ)というドラマで難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)に悩み苦しみながらも懸命に生きる青年を演じている。本人の希望で企画が決まったというが、こうした経験も本人の生きる力になり得なかったということか。

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 [ 大泉洋 ]
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どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...