2021年10月26日火曜日

食べて生きる

 元気で長生きする人は総じて食べることに意欲があるように思う。その点で私は家族4人、弁当作りを含め日々三度の食事担当であるにもかかわらず年々食べ物への興味が薄れており、料理の質が落ちているようで困っている。これでも20代30代の頃は時間が来るとお腹が空いて、食事は作るのも食べるのも楽しみだったし、美容と健康のため食欲を抑える方に意識を向けていた。一人暮らしの母は結構食いしん坊で一人でもあれこれ作って食べており、しんどいと言いながら迷惑をかけられぬと食事には気を遣っているらしい。

セルフネグレクトという言葉があるが、人生に希望がなく衣食住に構わなくなり社会から孤立する状態に、私はなりやすい性質らしい。決して良いことでなく人様に迷惑をかける行為であることも知っているし、自立した精神を培ってこなかった著れと思う。祖母や曽祖母にはだらしない、しっかりしろ、他所様には幸せそうな顔をしろとあの世から怒られるに違いない。実際には教えるでもなく専ら実践で、慶応生まれなのにハワイアンを聴いたり、少ないお小遣いで謡に没頭したり精一杯遊んで晩年を過ごしていた。

年々歳々花相似たり 庭に生えてくる雑草にも流行りがあるらしく、おそらくは外来種と思われる草が優勢でも次の年はそうでもなかったりする。人も草木も毎年同じではない、だから飽きずにもう一年一年と生きる。生きたいから生きるし、生きたいから食べるのだ。

生命力がなくなったと感じたら、私には地味だけど土いじりが一番効く。小さくても庭のある家に住めて良かった。


2021年10月11日月曜日

風になる

 千の風になって(原題:Do not stand at my grave and weep)という詩がある。1932年米国メリーランド州の主婦が母親を無くした友人のために書いたものが様々に伝わったとする説が有力ということだ。日本では三行目の I am in a thousand winds that blow,の部分を訳して邦題とされている。自然に還るという感覚が日本人の心にも通じるといくつもの訳詞があり曲もつけられた。私も憚りながら意訳を試みたらこんな感じ。

お墓で泣いたりしないでね 私は いつも吹いてる風の中

日本のお墓のありかたは近年大きく変わったと言われるが、一般庶民が立派なお墓を持てるようになったのはそう昔のことではない。今だってお墓一基建てようと思うとウン百万かかったりするように、たまたま一族で成功した人が大見得張って建てたりするような贅沢品だった。

昨年、親類の墓じまいの話をいくつか聞いた。祭祀を継ぐ者がいないから永代供養墓に改葬したとのことだ。我が家も母方と父方両方の墓じまいを考えなければならない。全くの無縁仏になって歳月が経てば寺院であろうと更地にされるのは分かっているが、要は残された者の気持ち次第で手厚くするかそうでないかを決めるというところだ。

幼い子を亡くした従兄は先祖の墓とは別に可愛いお墓を作ってしまい、それについて今後どうするか親たちと揉めたそうだ。石を拝んでも仕方ないのだが、悲しみが強ければたかが石されど石なのである。誰も背負わない新品のランドセルを置く場所が必要だと母親が言えば誰も止められず、経済力と優しさが却って悲しみを閉じ込めてしまったようで胸が痛む。人の記憶から消えてしまう頃合いを見計らって粉々になるような墓石があれば良いのかもしれないが、そう都合良くはいかない。

我が家で義母の葬儀から1回忌法要までお願いした近隣のお寺では、予め2人とか3人とか入るべき納骨が済んだら13回忌を待って永代供養塔に合葬してくれるという。昔の風習を重んじながら新しい、お墓のあり方だと思った。



そんな時代も

今日は久々に大学生の息子がキャンパスで授業があると朝早く出かけていった。入学式のないまま始まった学生生活、オンライン授業が主流となって対面授業が出来た日は数えるほどしかない。そういう時代だから仕方ないのだと、嫌というほど言われてきただろうし私もつい言ってしまう。

もう30年以上も前、初めての新入生歓迎コンパで連れて行かれたのは京都大原の民宿だった。大学でも飲み会が激しいと評判のサークルと後になって知るのだが、鍋の蓋にビール1本注いでイッキ!イッキ!をやっている横で課題をしている学生がいたり、倒れたり吐いたりがあっても次の日はちゃんと文化財見学したりする。それで何かが変わった訳ではないけれど騒がしい印象的な学生生活の始まりだった。

大原には中学校から遠足で来たことがあり、あいにくの雨だったけれど寂光院や三千院を見て回って漬物など買って帰った。国語の先生は「大原御幸」の舞台をしっかり見てこいと言ったけれど、箸が転がっても可笑しい年代にぞろぞろ連れ立って観光バスで行ったところで何を感じられよう。建礼門院?後白河法皇からしたら息子の嫁でしょ?キモ!あーぁ、嵐山のタレントショップとか清水寺とかの方が良かったなーてな具合である。

今は京都市営地下鉄が国際会館まで延びているから、そこからバスでも20分ほどで大原に着く。市街中心部から京都バスで行くしかなかった頃は、観光シーズンなど交通渋滞に巻き込まれたりして結構行きも帰りも時間がかかったものだ。それこそ歩くしかなかった時分は都から離れた静まりかえった山里であり、そのまま北へ向かう道は若狭街道となって滋賀県大津市の途中越や花折峠を経て福井県に至る。

大原の名物といえば茄子・胡瓜・茗荷などを紫蘇の葉と漬けたしば漬け。なんでも建礼門院徳子が好んで紫葉漬けと呼んだことからしば漬けと言われるようになったとか。小さい頃はあの茗荷がちょっと苦手だったけれど、祖母が出刃包丁で細かく刻んでくれたものは食べられた。京都の漬物なら「「千枚漬け」「すぐき」もあるが、しば漬けの赤紫と独特のクセは田舎なのに鄙びていない大原里の印象に重なって別格に思える。

時代や価値観の変わる節目に生きた人がいて、何を思い次に繋げていったか、今なら想像することもできそうに思う。後白河院は南都焼討ちで失われた奈良東大寺の再建に尽力し、大仏開眼には周囲の反対も聞かず正倉院から筆を持ち出して自ら目を入れたという。新しい時代の風は大原にも届いただろうか。
          【TVCM】JR西日本 2008年 盛秋「大原・三千院」そうだ 京都、行こう。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...