2021年10月11日月曜日

風になる

 千の風になって(原題:Do not stand at my grave and weep)という詩がある。1932年米国メリーランド州の主婦が母親を無くした友人のために書いたものが様々に伝わったとする説が有力ということだ。日本では三行目の I am in a thousand winds that blow,の部分を訳して邦題とされている。自然に還るという感覚が日本人の心にも通じるといくつもの訳詞があり曲もつけられた。私も憚りながら意訳を試みたらこんな感じ。

お墓で泣いたりしないでね 私は いつも吹いてる風の中

日本のお墓のありかたは近年大きく変わったと言われるが、一般庶民が立派なお墓を持てるようになったのはそう昔のことではない。今だってお墓一基建てようと思うとウン百万かかったりするように、たまたま一族で成功した人が大見得張って建てたりするような贅沢品だった。

昨年、親類の墓じまいの話をいくつか聞いた。祭祀を継ぐ者がいないから永代供養墓に改葬したとのことだ。我が家も母方と父方両方の墓じまいを考えなければならない。全くの無縁仏になって歳月が経てば寺院であろうと更地にされるのは分かっているが、要は残された者の気持ち次第で手厚くするかそうでないかを決めるというところだ。

幼い子を亡くした従兄は先祖の墓とは別に可愛いお墓を作ってしまい、それについて今後どうするか親たちと揉めたそうだ。石を拝んでも仕方ないのだが、悲しみが強ければたかが石されど石なのである。誰も背負わない新品のランドセルを置く場所が必要だと母親が言えば誰も止められず、経済力と優しさが却って悲しみを閉じ込めてしまったようで胸が痛む。人の記憶から消えてしまう頃合いを見計らって粉々になるような墓石があれば良いのかもしれないが、そう都合良くはいかない。

我が家で義母の葬儀から1回忌法要までお願いした近隣のお寺では、予め2人とか3人とか入るべき納骨が済んだら13回忌を待って永代供養塔に合葬してくれるという。昔の風習を重んじながら新しい、お墓のあり方だと思った。



どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...