2020年8月28日金曜日

彼岸には涼風立つや鉦叩き

 庭でカネタタキが鳴いている。体長1cmほどの薄茶色の虫でコオロギのような姿をしているが、声の大きさに反してとても小さいので見つけることは難しい。「チッチッチ」と金属のような音を出すことからこの名がついたという。カネといってもゴーンとつく「鐘」ではなく、仏間にあるか若しくは手に持って鳴らす「鉦」である。乞食僧が念仏を唱えながら鳴らせばもう時代劇になってしまうが、仏具の名を負う秋の虫は残暑厳しいながらお彼岸が近づいていることを教えてくれる。

この夏は本当に暑くてエアコンの効いた部屋に閉じこもっていた。毎年ここまでつけっぱなしということはなかったのだが、新型コロナウィルスの影響(もう聞き飽きた)でステイホームが長かったこともあり体力がぐんと落ちてしまったから体調を崩してわずかな家事をも滞らせたくなかったのだ。本当いうとお盆休みには息子たちに家を任せて実家に何日か泊まり掃除などを手伝いにいこうと思っていたが、ニュースでコロナ感染者が増えている等で帰省を控えている人が多いとのことで我が家もそれに倣った。

昨年の夏は二度も熱中症で寝込んでしまったので今年は気をつけていたはずなのに、やはり一度お店で立ちくらみがして事務所で休ませてもらう失態をやらかした。この暑さの中も毎日働いている人がいる。無力な自分はありがとうを言うことしかできない。店の品物を大人買いすることもできない。棺桶に片足突っ込んで、という酷い表現があるが「あっち側」の先に逝った人たちよりかは、足を抜き差ししながら何かできると思いたい。

暑いけれど確実に日は短くなり夜が長くなっている。地軸が23.4°傾いているから季節が巡るのだが、いつの間にかカレンダー通りに気温の変化がなければおかしいと思うようになっていた。縄文時代と平安時代では堆積物などからも相当気候が違っていたと言われているし、それからさらに1200年以上経っている。昔のカレンダーが現状にあまりにそぐわないのであれば、新しい暦や歳時記を作ってみてもいいかもしれない。

2020年8月16日日曜日

Weeping Woman

3年ほど前、惜しくも行きそびれた展覧会がある。「怖い絵」展(2017 兵庫・東京)である。ドイツ文学者の中野京子さんによる、「恐怖」に焦点を当てて時代背景やまつわる物語を解説した斬新な美術書を実際に鑑賞しながら味わおうという企画で大変盛況だったそうだ。

やはり目を引くのは縦2.5m、横3mの大作、ポール・ドラローシュの《レディ・ジェーン・グレイの処刑》だ。わずか9日間の王位の座から一転、目隠しをされ斧で首を切られる16歳の王女の処刑シーンは誰の目にも怖い。

シリーズは少しづつ読みたいと思っているが、とりあえず手元にはこの《レディ・ジェーン・グレイの処刑》を筆頭に22作品が取り上げられる「泣く女」篇がある。そして最後の作品22はパブロ・ピカソの《泣く女》(いずれも所蔵美術館のサイトにリンクしています)

美術の教科書にもキュビズムの例として《ゲルニカ》と共に掲載されることが多いようだが、実際《泣く女》は《ゲルニカ》発表の翌年に制作発表されたというだけあって、表現がとても似ている。この絵がどこにあるのも知らず、学生の時友人に連れられて行ったロンドンのテートギャラリーで、突然「本物」の彼女に出会ったのだ。

思ったより小さな絵で、しかもターナーなどの大きな作品に圧されて隅のほうに追いやられている感があり、それがまた悲しくてオイオイ泣いているようにも見える。テートギャラリーのサイトでは死んだ我が子を抱いた母親の姿としているが、それにしたら随分とパワフルで滑稽な泣き方だ。これにはモデルがいて《ゲルニカ》制作過程の写真を撮った何番目かの愛人ドラ・マールである。「怖い絵」によると、制作中に元愛人マリー・テレーズがアトリエにやってきて二人で罵り合い掴み合いの喧嘩になったというから凄まじい。蒼くなり赤くなり怒り狂う女の泣き顔を、冷ややかに観察する芸術家の目がそこにある。

制作過程を写真に収めながら渾身の作品を共同制作しているような気分であったか、またそのように囁かれて愛を得たと確信した日もあったに違いない。それだけに裏切りの哀しみと屈辱の怒りを激しくピカソにぶつけたであろうし、ピカソはそれを一層面白がって《泣く女》シリーズを描いた。一歩引いてこちら側に男の背中を想像すれば、残酷な怖い絵に見えてくる。

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2020年8月3日月曜日

ポテトサラダ・コペルニクス的転回

NHKの番組「COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜」の放送で、日本のフルーツと関連する文化を各国のゲストが意見交換するのがとても面白かった。日本の芸術的に美しく甘いフルーツを称賛する一方で、皮を剥いて食べない日本人が外国人には不思議に映るという。

果物といえば中学生の頃、弁当を仲良しグループで食べる習慣があった。女子校だったからかどの子も必ずと言って良いほどデザートに果物を持ってくる。それをグループの子一人ひとりに均等に分けるという奇妙な習慣がはびこり、弁当の蓋の上にりんごがひとかけ、みかんが一房、ブドウが一粒という具合にのせられていく。私は遠距離通学なので朝早く弁当を詰めてくれる母の手間を思う以前に、弁当を食べた直後に生温い果物を食べる気がしないため持って行ったことはほとんどない。しかしくれるものは仕方ないので嫌々食べる。

りんごも飾り切りにしてあったり、ブドウの皮を剥いてあるものもあったりして、ひと手間かけてあるのは分かるが、衛生的にはどうなんだろうか。COOL JAPANのゲストを始めインタビューした外国人の全てがぶどう・りんご・柿・桃の皮は食べると答えた。キウイの皮は食べる食べないに分かれたが、毛のないゴールデンキウイに関しては全員皮を食べると答えていた。試しに皮ごと食べてみたら、これが意外に美味しい。柑橘類は抜きにして本当の果物の美味しさは皮と身の間にあるのだ。以来ゴールデンキウイを食べる時はそのまま輪切りにしている。

贈答品として見栄え良く、より甘い果物を作らんがために品種改良を重ね、食べる時も手間をかけることに価値を見出した結果、日本人は果物の皮を食べないことが上流の証しと勘違いし、果物の皮を剥く日本人妻は評価されたのだ。カットフルーツの技術や文化まで否定するつもりはないが、あれはハレの食べ物であって毎日するものではない。栄養価、味ともに果物は皮ごと食べるのがスタンダードであることを認識すれば、一般家庭でりんごの飾り切りをする異常さに気付くし、問題を家事・育児・パートナー関係に広げてみれば発想を根本的に換えられそうな気がする。

番組の放送と同じ頃、巷では「ポテトサラダ論争」というのが流行っていた。スーパーの惣菜売り場でサラダを買おうか思案中の幼児連れの女性に初老の男が「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ?」と言い放ったのを、目撃した中年女性がTwitterでばらまいた一件。

ジェンダー、モラハラ、マウンティング、高齢者、孤独、認知症など様々なキーワードが挙がりネットは蜂の巣を突いたように沸き上がり、一様に初老の男を攻撃したのであるが.... 海外の反応は冷たい。タイ人の女性はこうした論争が起きるのはいかにも日本人らしいといってせせら笑い、ドイツ人女性に至ってはそもそもポテトサラダは買うものであると。他人がサラダを作ろうが買おうが知ったこっちゃねぇという回答。

そして、スーパーのポテトサラダは値段のわりに不味すぎるのだ。あれがせめてデパ地下のデリ並になれば「あら、ここのサラダ美味しいんですよ。」と言ってやれるのだが、いずれにせよ頭のおかしな人には近づかないでおこう。

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どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...