2024年4月27日土曜日

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。

長く生きてもやっぱりあの世へ行くのは勇気がいるから、この世の執着を少しずつ解いていくことを自分に言い聞かせているのだそうだ。地べたの世界に絡まった紐をするすると外して、最後の一本を解き放った瞬間、まるで気球のように空に向かって飛んでいくなんて素敵な発想だなぁと思った。

同じ死ぬのでも、幼い子供を残して逝かねばならない人、故郷に恋人を残して戦場で散っていく人などはこの世への思いを無惨に断ち切られ、心配と不安の中でこの世の記憶はどうなってしまうのだろうと重たい気持ちになる。私が今この瞬間「あなたは死にます」と言われたら、手足をばたつかせて「今は困ります。どうかもう少し猶予をください。」と未練たらたら懇願するだろう。

平和なうちに歳をとり、生まれた順番に逝くことの有り難さ、爽やかさを年寄りから学ぶ良い機会となった。お母さん、ありがとね。

2024年4月25日木曜日

お酒は二十歳になってからいつまで?

 長く書かなかった理由のひとつは生成AIの存在があるかもしれない。条件を与えれば動画さえ適当な材料から作ってしまう人工知能。新たな知能はこれまで人間が蓄積してきた考えやイメージを再構築して形にする、さらに専門性を高めて個性を出し始めていると言う。

教養も知識もない生身の人間がいまさら何を言っても虚しい。そう思い始めたらやる気がなくなる。全て人を人たらしめているのは脳の働きであり、神経が伝える信号でしかない。だから今のAIにできないことを挙げるなら、矛盾だらけの無茶苦茶で不可解な行動くらいのものだろう。

脳の働きがおかしくなる原因は、事故や病気で脳神経に損傷を負うケースもあるが、近年は加齢に伴って増える認知症の発症が珍しくない。発症のメカニズムは脳内のアミロイドβなるタンパク質の蓄積によると聞くけれど、基本防ぎようがないのが現状。治療薬が処方可能になったと言っても、脳のむくみや出血といった副作用の懸念と、半年ほど進行を遅らせることの意味がどれほどあるのか疑問は残る。脳の働きをおかしくするものには他にも薬物、そして最も身近なものとしてはアルコールがある。

酒が食事を美味しくしたり楽しい気分にさせてくれることについては特に否定しない。ただアルコールは少量でも脳にダメージを与えることが以前より指摘されていて、摂取量に比例して脳の萎縮が起こるという。脳萎縮の進んだ症例データをもとにした研究はあっても、実際に飲んだ量と萎縮の関係を臨床で追跡調査するのは難しいのでまだはっきりしたことは分かっていない。明確なのは原因が何であれ、一度萎縮した脳は元に戻ることはなく、ダメージを受けた場所によって症状が異なることだ。アルコールが成長過程の未成年に及ぼす影響は言うまでもない。

アルコールによる脳萎縮は老人性認知症と比較すると、全体的にまんべんなく萎縮する傾向があるそうで、それだけに目立った変化がないのが特徴という。自覚がない一方で、飲酒習慣のある人はない人に比べ10〜20%の脳萎縮がみられるという報告もある。樹木に例えれば先の方の枝が折れてスカスカになってもそれなりに樹形を保っているということか。未発達状態に後退したスカスカ脳では、ピーク時に比べ理解度も理性も大きく落ち込んでいるだろう。知能が下がれば本人の幸福度は上がるかもしれないが、果たして周囲の理解を得られるかどうか。

体内にアルコールが入ると大脳新皮質の機能が低下し、真っ先に感情を司る前頭葉の働きを悪くする。酔っ払いの言動は総じて横柄で、飲まない人を不快にする構図は古今東西変わらない。体質的に飲めない人だって人生嫌なことの一つはあるのだから種々の言い訳は通らない。飲まないことを責めたり馬鹿にするのは立派なハラスメント行為であることを自覚し、自傷行為に他人を巻き込むのはやめてもらいたい。さらにタチの悪いことには酔っ払いに何を言っても無駄なのだ。

2024年4月24日水曜日

伝えない自由について

 数日前のこと、郵便受けに奇妙なチラシが入っていた。何とかCOS MARTというタイトル字の下には、外国製と思われるパンの袋やジップロック、キッチンペーパーの写真が貼り付けてある。「食べてみたかった商品が食べ切り小分けに!」「おいて欲しい商品のリクエストも受付中🎵」近所の分譲地に防草シートを貼って、建設現場用プレハブを置いただけの粗末な店舗の写真と連絡先の電話番号を見てまぁ大体のことは分かった。しかしあまりに情報量が少なくはないか。

ぼんやりした50代主婦にでもCOSと「小分け」を読めば、個人も会員制で利用できる業務卸で人気のコストコ商品を小分けにして再販する店なのだろうと察しがつくし、配送や温度管理も素人レベルであることは容易に想像がつく。

それでも若い世帯の多いエリアではコストコのファンも多いだろうから、そこそこ繁盛するのではと思う。1980年代円高で1ドル80円くらいの時の輸入品を思い出すと、何がうれしくて臭いの強い洗剤やマーガリンどっさりのケーキをこの値段で買わねばならんのだとつぶやいてしまうが、30代にはその記憶がないから仕方あるまい。もちろん日本全国同じ商品に満ち溢れている中で、たまには気分を変えてみたいとか、海外旅行へいった気分になりたいとか、生活に変化を求めたい気持ちは分からないでもない。そして、そういう感覚こそ若さなのかなぁと思ったりもする。

話をチラシに戻して、どういう店なのか50代主婦にでも伝わったのならそれで万事いいのかという問題。この店主には広い年代層をターゲットに展開して売り上げを伸ばそうという野心はなく、自分の来て欲しい客層だけで楽しくやりたい雰囲気が漂う。そういえば昔、アパートの隣の奥さんが週に一回市場で野菜を仕入れてきて近所の人に販売していた。あの売り上げを確定申告していたか定かではないが、顔見知りにお安く提供しているんだから良いことしてるのヨ的なムードだった。再販売も税金を払いさえすれば別に悪いことではないし、本家のコストコもビジネスメンバーとして登録してくれたら全く問題ないということだ。

ただここは日本のありふれた住宅地であり、外国人であっても日本語を読み書き話す。せめて店の名前・場所の説明・営業時間・定休日・どんな商品を売っているくらいは日本語で書いて欲しかった。それに店があれば搬入や客の車が来たり子供が騒いだりゴミが散乱する可能性もある。広告とは、そこに店があることを必ずしも好意的に思わない人への挨拶状でもあるからだ。

何も考えず素直に見れば、よくある折込のセオリーにとらわれず、おしゃれで新しいチラシには違いない。これでいいのか?これでいいのだ。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...