2020年9月24日木曜日

保険適用という飴と鞭

少子化問題について、菅首相の「不妊治療の保険適用化」発言や、岸田前政調会長の「出産費用の実質ゼロ化」発言で様々な意見がネット上で飛び交っているらしい。これが結構賛否両論で、産んでからの方がお金がかかるとか、教育無償化にも力を入れるべきだとか、これだけでは偏りすぎで不十分だと言う声が散見する。

声を発しない人の意見はどうだろう。表立って反対とは言えないにしろ何かがおかしいと多くの人が感じているのではないだろうか。子育ての費用を用意するのに男女共にキャリアを継続する必要があり、大学卒業後就職して数年で結婚して第1子が生まれたら何歳になっているか。どんなに順調でも30歳になってしまうではないか。第2子を望むなら育児休暇を取るタイミングも考えたい。5歳くらい離すつもりなら20代で一人、30代で一人産んでおきたい。

そういう要らぬおせっかいを姑が言うと絶対に拒絶されること間違いなしだから、専門家からのレクチャーでもあれば多少役に立つだろうか。自治体の補助で結婚前のブライダルチェックなるものを婦人科や泌尿器科で実施しようか。いや、それも何かおかしい。

高額な不妊治療が必要になる状況になったら、やはりその経済的・肉体的・遺伝的リスクを鑑みて特別な人だけが自費ですれば良いというのは傲慢な考えだろうか。授からないならそれでもいいかと上手くやっていたカップルが、保険適用で不妊治療の泥沼にはまるようなことはないだろうか。

生殖のメカニズムと医療の知識はあって邪魔にはならないし、学びによって人は命の大切さを共有できると思う。それは何も自分の遺伝子を残すに限ったことではなく、生命の誕生の不思議で奇跡的な部分を知る機会だと思えば保険適用も悪くない。が、それだけに税金を投入するのは。やっぱり偏りすぎだよね?

2020年9月17日木曜日

もしも娘がいたのなら

 子供の頃のアルバムの整理をした。最終的には数枚にして、それもデータでと思っている。私自身は女であるけれど、幼少期のことを全て覚えているわけでないし弟や妹もいないので子育てといえば育児経験のある男の子しかイメージできない。

ふと思う。今、女の子を育てるとしたらどんなだろうかと。

息子には洋式トイレで立って用をするように教えておきながら失敗するとケツを叩いたと恨みがましく言われたりする。あんなに愛らしいものを何も叩くことはなかった。近い将来ヨボヨボになって失禁した私のケツを叩くが良い。

当たり前だが女児は生まれ落ちたその日から女児だ。まずお尻拭きの抑えるべきポイントがあり、バイ菌が入らないように気を遣ってやる必要がある。幼少期は身体の成長も頭脳の発達も圧倒的に女児が優っている。女児は一般に男児より怪我・病気共にトラブルが少ない?らしいが、最近は10歳くらいで初潮を迎える子も一割くらいいるらしい。メンタル面がややこしそうだ。通信機能のある携帯ゲーム機やスマホを所有する低年齢化は深刻で、特に女児はSNSいじめなどのトラブルに巻き込まれやすい。ママ友同士の気遣いがいろいろあるらしい。幾つになっても続く送迎などなど。

母は私が高校生くらいの頃、「これからの女性は家事だけしていても幸せになれない。育児の頃は私が全面的に助けるから思ったことをやりなさい。」と確かに言った。だが実際その時になると体力は落ち時代は変わり介護も抱え「出来るだけサービスを頼らず自力で育児せよ」「家庭で勉強も遊びも何でもできる」「あれこれ悩むくらいなら本を読みなさい」と遠隔操作してくるように。母にはあらゆる面で感謝しているが、女子教育についてはあれこれ語る割に一貫性に欠ける。自分のわずかな経験で助言してもテンパっている人には全く役には立たぬということだ。実母でこれなのだから…。

かつて6年間通った女子校は校舎が修道院に直結しており、校長のシスターは「女性として生きる」ことをテーマによく講話されていた。筈だが、その頃の私は全く興味なしでうわの空。もったいないことをしたと今になって思う。シスターたちは朝から晩まで忙しそうに働き、祈る。若くて可愛いお姉さんみたいな人や、ふくよかで母性の塊みたいな人、塩をつまんだみたいなお婆さんなどいろいろである。とりあえずいつも動いている、最強の働く女性集団だ。私は学ぶべき何かを完全にスルーしてしまったらしい。

もし私に娘がいたら、この怠け者の母に激しく反抗してくることは間違いない。聞いてくれないかも知れないが、あえて言う、女で生まれてきたことを受け止めて生き方を探って欲しい。


2020年9月10日木曜日

マリアージュ

 組み合わせの妙味の話。

フランス料理でワインとチーズなどに代表される味の組み合わせに、婚姻を意味する「マリアージュ」という言葉が使われる。円高還元や関税の見直しで日本でも外国産ワインが安価で手に入るようになり、国産ワインも質の高いものが作られるようになって久しい。

そのマリアージュmariageという言葉の中に仏語 mari (夫)が含まれている。その語源であるラテン語 maritus(夫、既婚男性、夫婦の)はさらにラテン語 mas(男性の)からきており、英語ではmale(男性の)になる。カタカナで書くと聖母マリアを想像させながら、実際には「男が嫁取りする」という実につまらない言葉であることがわかる。

料理の世界ではワインに合う食材を探すことも、またその逆もあるようで。組み合わせによって1+1=2以上になることも、またそれ以下になることも。お互いの良さを引き出すか、却って生臭さを引き出してしまうか、双方の個性が強いほど両極端な結果を出しそうに思う。

人のマリアージュもまた、どちらかが水みたいに個性がなく何にでもなれる性格であれば、何か物足りないなぁと思いながらも一生そこそこ幸せに行けるのかもしれない。一緒に暮らせているのは1+1=2で納得しているからだ。足りない部分は歌や文学のスパイスで補うことだってできる。仕事や子育て、趣味やスポーツでも構わない。

どんなに相性の良い運命の人に出会っても死に別れたり、独身で妙齢の男女として出会わなかったら問題も生じる。当事者だけが知る独特の世界観であろうと想像する。


どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...