2022年9月25日日曜日

カインとアベル

 我が家には4歳違いの息子が二人、分け隔てなく育ててきたつもりでも本人たちがどう思っているかは完璧に把握しているわけではない。性格も見た目も違うし手のかけようだって力の入れようだって違ってくる。双子じゃないのだから、子育ての時系列の中にあってその時の経済力でかけられるお金も全く同じというわけにはいかないし、親も確実に歳を取って体力を失う。そういうことは自分達が体験しないとなかなか理屈では伝わらないのだ。

亡くなった父の妹も、姉にアラウンド80にして親の愛情や学費、容姿コンプレックスを未だ引きずっていたりする。その「えこ贔屓」した母親である祖母は、あろうことか自分の妹に幸せぶりを見せびらかす悪い癖があり、晩年二人は絶交状態になった。いなくなれば寂しいのに、どうしてこうも兄弟姉妹というのは関係がこじれてしまうのだろう。一人っ子の私にはそういった煩わしさがない、ゆえに考える機会を逸し心配りができないことは自覚している。

子供の頃はよく「お父さんお母さんの愛情を独り占めしていいわね」「一人っ子じゃ寂しいでしょう」と勝手にメリットデメリットを決めつけて声をかけられた。愛情に定量があるわけではないのに変なことを言うと思ったが、経済面で恵まれていることへの指摘だったのだろう。私の世代ではもう二人っ子が主流で3人兄弟は珍しかったのに、年配の人はちょっと個性の強いところがあれば一人っ子だからと指摘した。もう一人欲しかったのに、父が病気で復帰が難しかった時、親や親戚の勧めで中絶を余儀なくされた母にはつらい言葉だったろう。

我が家では父は母の方しか向いておらず私には母を介してしか関わらなかったから、母に比べ父の愛は優しいが薄かった。生家では幸せだったし自由な発想で結婚を応援してもらえたから何の不満もないし、結果的に一人っ子で良かったと思うことの方が多い。

閉鎖的な核家族にあると、親はつい子供を私物化する傾向がある。祖父母の孫であり、夫の子供を預かっているくらいの感覚で丁度いい。しかし実際、昭和の拡大家族にあっても子供たちのいざこざを止められた親は見当たらない。どんなに歳を取っても災の種を蒔かず、出てきた芽は摘んでおくのが親の務めではなかろうか。言い訳の前に心して先陣の轍を踏むなかれ、である。

「カインとアベル」ガエターノ・ガンドルフィ作 17世紀

「このヤロー!なんでお前だけ可愛がられるんだよ!?」「そんなん知るか。親父に聞けよ」


2022年9月16日金曜日

渡り鳥でいこう

 台風14号が北上し、ここ近畿地方には熱い風が吹いている。こういう光と暑さにふと思い出したことがある。小学3年生くらいだったか、夏の終わり父と二人で伊吹山に登った。伊吹山は標高1377mの岐阜県と滋賀県の県境の山である。あまり高くないとはいっても金剛山1125m、六甲山931m、比叡山848m、生駒山642m、天保山4.53mと比較するでもなくハイキングにしてはキツい山なのだ。

しかも山全体が石灰岩で出来ているため高木が生えず、木陰一つない乾いた登山道をひたすら登らねばならない。冬は日本海からの湿った空気で豪雪地帯になり、夏の間は乾燥して高山植物がどうにか生えている。薬草が多く自生するこの地には織田信長の薬草園があったとか。そんな厳しい環境で、近年は鹿が貴重な花畑が食い荒らしているという。あの時も雨の降らない夏だったのか山頂付近は砂埃がひどく、トリカブトの花にときめいた以外楽しい思い出がほぼない。美しく広がる琵琶湖の風景も見るには見たのだろうが、小学校3、4年生あたりの関心といえば「巨大生物の謎」「忍者の秘密」「知られざるアマゾンの秘薬」だったから。

父は学生時代ワンゲル部に入って各地の山に登っていたそうだ。若い人の為に簡単に説明すると、19世紀後半流行したドイツの青少年野外活動Wandervogel(渡り鳥)にちなみ、日本で昭和30年代大学生の間でワンダーフォーゲル略してワンゲル部と名付けた野外活動クラブが流行、日本には山地が多いので活動はスキーや登山、キャンプが中心となった。登山専門には別に山岳部が存在するから、どちらかというとチャラい系とも言えるが、家庭教師のバイト代を貯めて夜行列車の切符を買ったと話してくれた。

父はおとなしい性格だったので、戦争から帰ってきた祖父はそれが気に入らず何かと暴力を振るった。かけっこもボール投げも苦手で工作ばかりしていたが、京都岡崎の琵琶湖疏水を利用した水泳教室に通ううち上手になり体力もついた。球技というのは生まれ持った才能もあるが、幼いうちに繰り返し訓練しないと感覚が身につかない。その点、登山やスキーはスポーツでも球技や陸上とは違って自分に合っていると思ったのだろう。ものすごくいい笑顔の写真が残っていてこちらも思わず笑顔になってしまう。

病床に長く眠り続けている父がどんな夢を見ているか考えてみたら、やっぱり山かなぁと思った次第。

追記:このブログを書いた夕刻、父は他界しました。風の便りだったのかもしれません。

画像は本文に関係ありません(^^;


2022年9月14日水曜日

寄り添う

 祖母が老衰で亡くなって一年と少し、大正15年12月生まれだから最後の大正生まれ。先日崩御したエリザベス2世は同年4月に誕生。同年生まれの有名人を見るとマリリン・モンローがいたりして、早く亡くなる人に比べたら超高齢と思っていたら、まだ存命の有名人も多い。

去年のことなのに随分と時間が経ったような気持ちでいるのは私だけではないようで、祖母の容態を気にして施設へせっせと通っていた母が、老衰の人の終末期をあまり覚えていない。父が同じような状況にあるにも関わらず「そういえばそうだったかな」と頼りなく、逐次母が報告してくれたことを私が思い出すという状況である。

ネット検索するうちに、玉置妙優『死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア』 (光文社新書)という本の書評が出てきて早速読んでみることにした。父は急性の病気の他は至って健康で、10年も認知症のため夢の中で暮らしており、相当前から意思疎通が厳しいため当てはまらない部分も多かったが、亡くなる直前の身体の変化については看護師(かつ真言宗の僧侶)としての経験から医学的に詳しい表現がなされおり大変参考になった。

玉置妙優さんは最初のお子さんが重度アレルギーを持って生まれてきたため自分でケアしたい思いで看護学校へ入学し、難しい子育てをしながら看護師となった。実家の支えもあってのことだろうが、資格取得後は病院勤務の看護師としての仕事を希望すると夫の理解を得られず離婚。その後何年か経って出会った人と再婚、二人目の子供を授かるが夫は57歳で大腸癌がみつかり60歳で亡くなる。最後の半年は病院で治療をせず、玉置さんが自宅で看取った。その経験を生かしたいと今度は高野山で厳しい修行を経て得度したという、大変稀な存在の方だ。そのまた学生時代にシルクロードを旅し西安で立ち寄ったお寺が空海ゆかりの地であったそうで、そこが原点であり何かの導きがあったのかもしれないと書かれていた。

私の知る一昔前の人達は大抵が何らかの病気で入院し、点滴に繋がれて病院で亡くなっていた。今は終末期を迎えた患者には痰が増えたり浮腫んだりと、苦しくなるだけなので病院でも点滴はしない。ただ延命治療をしないとなるとできる医療行為がなくなるので即退院となり、そこから在宅診療をしてくれるクリニックを探したり家族は不安だらけになる。今回は病院からの働きかけもあって介護施設の再入所が可能となり、本当にありがたかった。

広いリビングに介護ベッドを置いて子や孫に囲まれて惜しまれて死んでいくのが理想で、それに近づけるのが施設の務め、ご家族はできるだけお側に、というような善意のプレッシャーを母は感じて辛そうにしている。もっと昔なら家族総出で介護に当たり看取ったのだから、と思えばできるだけ側にいるのは当然のような気がしないでもない。母の近くに住んでいれば迎えに行って施設の往復をしていたかもしれないし、そうするご家庭は多いとも思う。

できることを全てしても後悔は残ると玉置さんは書いている。だとしたら旅立ちの支度をしている父を思うことも、寄り添うことにならないだろうか。私たち家族には良い思い出がたくさんあるし、何気なく一緒に過ごした時間も十分あったから、面会の回数にはこだわらない。そうは言っても、落ち着かない日々が続いている。




2022年9月5日月曜日

肝煎りでござる

 Amazonプライムビデオで『殿、利息でござる』(2016松竹)を視る。『武士の家計簿』の磯田道史『無私の日本人』に収録の「穀田屋十三郎」を映画化、「家計簿」と同じく古文書から浮かび上がらせた実話である。十三郎に阿部サダヲ、仙台藩第7代藩主:伊達重村にスケートの羽生結弦を起用したり、山崎努、草笛光子、西村雅彦、きたろう、松田龍平、妻夫木聡、竹内結子、永山瑛太など個性派揃いのコメディ。郡奉行に磯田先生もこそっと出演している。

「肝煎」「大肝煎」とは名主・庄屋と同義の村の首長のことで、東北や北陸で見られる役職名。今日では「誰々さんの肝煎りで」みたいな使い方をするが、本来は「心をイライラさせ、やきもきする」から「熱心に心を砕いて世話をする」さらには「苦労して二人の間を取り持つ」「あれこれ世話を焼く」意味に発展していったらしい。

大肝煎が代官に上書の取り次ぎを願い出、それがお城で一度却下された旨を告げられる際、労いに反物を頂戴するシーンがある。代官所がものすごく遠い山中であること以上に、もう面倒を起こしてくれるなよというサインでもあり、以来大肝煎りは再度の申し出に積極性を失ってしまう。

記録に残らない部分を想像を逞しくして補う作業は小説の分野になるかもしれないが、書かれなかった所にこそ人間らしさが詰まっている。昔の人が何を考えこういう行動に至ったかをたどる作業は郷土史研究において大切なことで、結果「昔の人は偉かった」となって多少美化されても、今に生きる土地の人を勇気づけるなら大目に見たいところだ。本当に真実に迫りたいのなら、記録を残した人の背景をも紐解かねばならない。

矛盾だらけの藩政にただ抵抗するのではなく、大店が金を出し合って苦しい伝馬の負担をお上への貸付金の利息で補うというアイディアが命懸けだ。この仙台藩吉岡宿の話は寺の僧侶が書き残した記録が元になっているという。知恵と篤志で村を守ったことを是非とも後世に伝えたかったのだろう。和尚様、良い話を残してくれてありがとう。






どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...