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2024年5月16日木曜日

可笑しくて哀しい

 2024年度上半期の朝ドラは『虎に翼』でヒロインは伊藤沙里が演じている。朝ドラヒロインとしては知名度高めで演技が安定した人を選んできたなと思った。コミカルな役が上手いのでドラマの名脇役的な印象があるけれど、映画にも多数出演している。

映画ホテルローヤル(2020日本:波瑠、松山ケンイチ、安田顕、余貴美子ほか。原作は桜木紫乃、直木賞受賞作。)ではヒロインがやむなく家業を継いだ釧路湿原を望むラブホテルの一室で、高校の担任教諭と心中してしまう女子高生の役だった。コミカルなのに哀しい、コメディの真髄をついていて、往年のチャップリン映画のように無邪気に笑いながらホロリとさせる。

登場人物の誰もが問題を抱えていて、一生懸命なのにどこか笑えてしまう。原作の方がその辺りは描写が細やかだったけれど、雄大な釧路湿原とものすごく寂れたケバケバしい建物の対比は映像の方が伝わったと思う。




気候変動と核戦争

 映画オッペンハイマー(C.ノーラン監督2023アメリカ)が話題なのでどうかなぁと思いながら、重いテーマを3時間も耐えられるかとためらっている。暗い映画館の大スクリーンで観ると内容に集中できるのはいいとしても、本編の前には必ず予告編があってやたら大きな音を鳴らすので、初夏など頭痛の起きやすい季節にはきついものがある。この作品は躁鬱気質の主人公が核兵器開発に携わる葛藤を描いているだけに、こちらまで心の不安定を誘発されそうで、たぶんそれは言い訳でどうもないのだけれど単純に一人で足を運ぶのが億劫である。

このノーラン監督がNHKのインタビューの中で、息子さんにこういう映画の企画があると話したら「僕らの世代では核兵器より気候変動の方が重要な問題なんだよ」と言われて衝撃だったと語っていた。アメリカのZ世代、だけでなく西側諸国の若者がそういう状態であることの危険性を感じながらこの映画を制作したという。確かに気候変動は人類共通の脅威であるし、生死に関わる大きな課題ではあるけれど、たとえ全人類が一丸となって環境問題に立ち向かったところで地震も火山も止めることはできない。太陽がほんの少し輝きを増したり勢いを弱めるだけで、地球上の生物は丸焦げにもカチカチの冷凍にもなるのだ。異常気象でコーヒー豆が不作なのも嘆かわしいが、原爆誕生から80年これまでにない緊張感で核戦争の一歩手前まで来ていることを今一度意識したい。どちらが喫緊の課題なのか、核兵器の扱いはこのままで良いのか。

世界には今も「原爆投下は戦争終結のために必要で正しかった」という意見がある。日本人としてそこはどうしても同意できないが、広島長崎の惨事を訴えることだけで核廃絶を求めるのは不十分に思う。廃絶運動の活動団体は核兵器放棄協定に国の代表がサインをしさえすれば世界平和が来るようなことを言うけれど、そこは決定的に何かが欠落していて論理の飛躍が生じている。人類史上戦争が無かったことはなく、外交の最終手段が武力行使=戦争であるなら、約束や取引の中で最終兵器を作ったり引っ込めたりして危うい時間稼ぎをするよりないのかもしれない。動画配信始まったらオッペンハイマー観ましょうか。



2023年2月19日日曜日

排除する社会

 動画配信で映画『PLAN75』(2022年製作/112分/G/日本・フランス・フィリピン・カタール合作 配給:ハピネットファントム・スタジオ)を観る。最近あまり観たい映画が見つからないまま放置していてあと数日で翌月の支払日となり、今回は更新しないことにした。期日が切れるまでに何かと思って探してみたら、昨年6月に公開のSFが配信開始になっていた。

支度金10万円支給、審査不要、合葬なら無料... とてもリアルに迫ってくる。コロナ禍では大切な家族に面会も最期の別れもできず、遺体袋に収めたまま火葬場へ運ぶことがまかり通った。日常が戻っても心の傷は残ったまま、こんなSF映画が現実になったところで、もはや誰も驚きはしないだろう。

かなり昔の映画になるが『COMA』(1978年 米)は簡単な手術中、昏睡状態になる患者が続出する病院に捜査が入る話で、10代の頃震え上がったのを記憶している。もっとも、善意のドナーと臓器売買を結ぶ悪徳病院を一刀両断する勧善懲悪モノであるから、後味は悪くないのだ。

私利私欲のための犯罪はそいつだけを罰すれば済む話なのだが、国家の場合はどうだろう。社会保障費削減のため個人に自決を迫る国家とは。組織的な殺人ほど恐ろしく、ある意味人間の特性を活かした行為であり、さらには人間の本質にも迫る重いテーマにつながる。

税収の観点から「生産性」を問われれば今の私は限りなく0であるけれど、私のような人が一斉にこの世から消えたら世の中が良くなるんだろうか。ちょっとそれは違うんじゃないか、というのがこの映画が問うところである。

映画『PLAN 75』あらすじ感想と評価解説。“SF現代版姥捨て山”を早川千絵監督が再び描く



2023年1月7日土曜日

黄泉がえろっ

 夜寝られないのでAmazonプライムで妙な映画を見てしまった。『黄泉がえり』(東宝:2002年製作/126分)。九州の阿蘇で、死者が死んだ当時のままの姿で甦る(黄泉がえる)と言う怪現象が発生し、原因究明のため派遣された青年がそこで見たものは!!

お涙頂戴ストーリーなのは予想通りで、草彅剛、竹内結子、石田ゆり子、伊東美咲、哀川翔、山本圭壱、田中邦衛、長澤まさみと豪華な配役のためにかえって力が分散し、歌姫役の柴咲コウのステージも無駄に長い。正直言ってものすごく駄作なのだが、前半が結構面白くそれだけに後半がどうにも残念でならない。

地震によってできたクレーターから発する磁場と、周辺の墓地に残る遺体の一部が呼応して何故か10日間ほどだけ死者が元気な状態で蘇るというめちゃくちゃな設定で、よくここまで引っ張ったなと感心する。ついでに言うと蘇って欲しいと強く願う人の前にしか現れないのであまり混乱は起こらないし、最後は霧のように消えてしまうので始末に困ることもなく、残された人はみな幸福感に包まれるというファンタジー。

2002年制作だから今では筋肉マッチョな市原隼人がひょろひょろの中学生だったり、演技が下手すぎてただ美少女なだけの長澤まさみとか時間の経過を感じて面白い。これは映画そのものの出来とは全く関係ないのでさらに残念なところ。

ひとつ興味深いのは、主演の竹内結子が自分が死んだことも黄泉がえったことも気付かない女性を演じていることだろうか。本人が自殺してしまっただけになんとも奇妙な気持ちになるし、どういう死生観で自ら死を選んだのか、もう知る由もないけれど。また急死する人というのは自分が死ぬ瞬間をどんなふうに感じるのだろうとか、あの世で生きている時の意識がどのくらいの期間保たれるのかなどと考えているうちに眠ってしまった。




2022年10月28日金曜日

悲しみと向き合う

 映画『ドライブ・マイ・カー』を観る。原作の村上春樹も作品の中で準備・上演されるチェーホフの戯曲もまるで知らないので、かなり苦痛を伴った。喪失感と微かな希望が素晴らしいとか評されているが、残念ながら共感というものはなかった。自分の感情に向き合うことをしないで無理をして生きてしまう人には響くのかもしれない。重く、一方通行で調和に欠けた世界に生きる人も少なくないということだろうか。

男女の場合、始めは楽しいことに共通項が多いと滑り出しは良いが、実は長い結婚生活では悲しみの捉え方や向き合い方こそが重要で、そこに気付くのは相応の時間がかかる。もちろん悲しみを激しく表現する人もあれば、殻に閉じこもって封印する人もあるが、それだけでもない。どうしても違和感に折り合いがつけられない場合だってあるだろう。

最愛の子供を亡くした悲しみの底から這い上がり、今度は奔放に恋人を次々変え、時には自宅で逢瀬を重ねて夫を傷つけ、ある日くも膜下出血で急死する女。優しく魅力的にふるまっても、悲しみにあぐらをかいて自己中心的な世界に生きた。また夫も自分の行動で妻の幸福度や運命が変えられると思っていて、どんなに嘘をつかれてもまだ自分が悪い、妻が死んだのは自分のせいだと責め続けている。夫婦でも人の心の中を覗くのはいけないし、心のうちを理解してやれなかったと悔やむのは誤りだと私は思うのだけど。

やたらタバコを吸うのと無機質なセックス、韓国に比重がかかりすぎるところ、多言語演劇といい違和感だらけでそれが狙いなのかハルキストにでも聞かないと分からない。違和感といえば作者の趣味が反映されて赤のSAABは格好よかったし、映画の中でも存在感を放っていた。丁寧に扱えば応えてくれるという点で妻よりも誠実という意味かもしれないし、緑内障で運転が難しくなってもドライバーが来て補ってくれるように、人生は修復可能であって欲しい。

実生活の中で違和感、不調和は忙しい時間の中に忘れられてあまり立ち止まることはない。気にしないでいる方が日常は穏やかに進んでいく。文学は自分にもあったかもしれない別の人生を見せるから毒性に注意だ。全然楽しめなかったが、少なくとも問いかけるものを感じた。




2022年9月5日月曜日

肝煎りでござる

 Amazonプライムビデオで『殿、利息でござる』(2016松竹)を視る。『武士の家計簿』の磯田道史『無私の日本人』に収録の「穀田屋十三郎」を映画化、「家計簿」と同じく古文書から浮かび上がらせた実話である。十三郎に阿部サダヲ、仙台藩第7代藩主:伊達重村にスケートの羽生結弦を起用したり、山崎努、草笛光子、西村雅彦、きたろう、松田龍平、妻夫木聡、竹内結子、永山瑛太など個性派揃いのコメディ。郡奉行に磯田先生もこそっと出演している。

「肝煎」「大肝煎」とは名主・庄屋と同義の村の首長のことで、東北や北陸で見られる役職名。今日では「誰々さんの肝煎りで」みたいな使い方をするが、本来は「心をイライラさせ、やきもきする」から「熱心に心を砕いて世話をする」さらには「苦労して二人の間を取り持つ」「あれこれ世話を焼く」意味に発展していったらしい。

大肝煎が代官に上書の取り次ぎを願い出、それがお城で一度却下された旨を告げられる際、労いに反物を頂戴するシーンがある。代官所がものすごく遠い山中であること以上に、もう面倒を起こしてくれるなよというサインでもあり、以来大肝煎りは再度の申し出に積極性を失ってしまう。

記録に残らない部分を想像を逞しくして補う作業は小説の分野になるかもしれないが、書かれなかった所にこそ人間らしさが詰まっている。昔の人が何を考えこういう行動に至ったかをたどる作業は郷土史研究において大切なことで、結果「昔の人は偉かった」となって多少美化されても、今に生きる土地の人を勇気づけるなら大目に見たいところだ。本当に真実に迫りたいのなら、記録を残した人の背景をも紐解かねばならない。

矛盾だらけの藩政にただ抵抗するのではなく、大店が金を出し合って苦しい伝馬の負担をお上への貸付金の利息で補うというアイディアが命懸けだ。この仙台藩吉岡宿の話は寺の僧侶が書き残した記録が元になっているという。知恵と篤志で村を守ったことを是非とも後世に伝えたかったのだろう。和尚様、良い話を残してくれてありがとう。






2022年4月29日金曜日

眠り、闇。

 『白河夜船』(2015制作 原作:吉本ばなな)を観る。ちょっと難解だけれど、これも冷たい閉鎖的な恋愛の世界になる。眠りこけて何が起こったのか分からない、という文字通りの意味がタイトルに込められているのだと思うけれど、何かこうぴったりくるようなこないような。闇の中に恋人を閉じ込め異次元で安らぎを得て、現実の暮らしでは誰にもきちんと心遣いをする。長く植物人間でいる病床の妻の見舞いにも行くし、その親達とも付き合う。そうしないと気が済まないのに、あるいはそれを続けるために恋人と会うという不毛な人間関係。

正直あまりこの世界に長くはいたくないが、クセになる人は少なからずいるだろう。この関係は誰のためになるのか、と疑問をもつような状況は結構身近にあると思うから。この人のためになることをしてあげたいとか、もっとこうして欲しいとか、描ける未来のない恋愛は脳死状態なのかもしれない。その存在価値の有無や、生死の判断を決める基準を、どこに求めれば良いのだろう。あるいは考えるのを止めることで自分の生を放棄すれば、ある意味脳死状態ではないか。

江戸時代には人は寝ている時、枕に魂を預けているという迷信があったとか。だからぐっすり眠っている人の枕を取ってはいけない、魂が肉体に帰れないかもしれないというからちょっとオカルトだ。技術が発達して夢を映像化して保存できるようになったら、私は自分の夢だけは他人に見られたくないと思う。そうでなくとも寝言が多いことが複数の人に指摘されていて、家族ともできるだけ同じ部屋で寝たくないのである。枕の中にデータが取り込まれて勝手に「こいつこんなこと考えとる(笑)」などと笑いものになる未来は想像するだに恐ろしい。どうかどうかそんな時代が来ませんように、枕よ私を裏切らないでおくれと言い聞かせておこう。



2022年4月24日日曜日

油持ってきたけぇ!

 『海賊と呼ばれた男』(東宝2016)を観る。出光興産の創業者である出光佐三がモデルの、百田尚樹による小説の映画化で多少美化が過ぎる面はあるが、起業家の伝記としてもっと知られてもいいと思う。映画では日章丸事件について英国海軍に凄まれるだけで現BPと法廷で争うところは省かれており、米国メジャーへの挑戦を軸に話の展開がすすむ。映画制作に当たってあちこちに配慮すれば無理もないだろうし、エネルギー問題から戦争を肯定すればたちまち国内からバッシングを受ける。

南方の石油開発で米軍捕虜となって亡くなった親類のことは前に書いた。敗戦国となった日本はGHQの統制化で軍隊を持たぬ国にさせられ、平和憲法さえあれば無傷でいられるような刷り込みを受けてきた。世界中同じような価値観の上で、双方武力衝突を避けるつもりなら世話はない。世界のサプライが複雑に絡み合っている中で、世界中の経済が細かな駆け引きで成り立っているかと思うと、突然の侵略戦争でめちゃめちゃに壊されたりする。

佐三最期のシーンでは佐三の幼いひ孫が、初代日章丸の精巧な船模型をじっと見つめる演出がある。1980年代はイランイラク戦争が勃発し、米国はレーガン政権に移ったところだ。今はロシアによるウクライナ侵攻で多くの犠牲者が出ているが、イライラ戦争の頃民間人がスマホを持って世界に発信していたらもっと悲惨な映像がテレビに映っただろう。米国軍は毒ガスも使ったし、その後の無秩序となった地域からは際限なくテロリストが派遣されてくるようになった。

再生エネは不可欠でも、まだ化石燃料には頼らざるを得ない。原子力だってまだ湯を沸かしタービンを回している段階では蒸気機関と大きくは変わらない。開発にもリサイクルにも電気が必要だ。日章丸はこれからどこへ向かったらいいのだろう。



2022年4月23日土曜日

Venusが夢を見るとき

 カード支払いのお知らせメールが一通、見慣れない請求である。それも500円とえらくポッキリなので明細を調べてみると、なんと解約し忘れたAmazon Primeだった。期限が切れてあと1ヶ月分更新されてしまっている。仕方ないので次の期限までに500円分は元を取りたいと読み放題の本や雑誌のリストを見るが、Primeで読めるものの中にこれというのは見つからず、ならばと映画を探す。

アクション、ホラー、アニメとどれも食指が動かぬので邦画は、というと半分近くアダルトで残りは青春ドラマなど。やっと目に止まったのは『墨東奇譚』(東宝1992)とな。

おばさんが休みの朝から観るには不良すぎるが、一応文学作品だから許してほしい。荷風扮する津川雅彦のすっとぼけた演技が原作に馴染んでいたし、カフェーの年増女(宮崎美子)、唯一?理解者の老いた母(杉村春子)、遣手婆(音羽信子)それぞれに味がある。玉の井の娼婦お雪とはわずか数ヶ月、あまり深くならぬ前に逃げてしまうのが原作なのだが、映画では陰鬱にならないようコミカルに仕上げている。反戦の挿話は余計だった気もするが、小説を再現するのではなく映画の中の荷風の生きる「現実」を描いたのは良かった。エンタメとしては純愛に仕立てた方が、万人に理解され共感を呼ぶ。

改めて原作をめくってみると好き嫌いはともかく、首まで水に浸かっているような世界観が全体を覆っている。濃厚な割にひんやりした空気と言ったら良いだろうか。平凡に惹かれあう恋人のようで、その実どこか冷めていて、どうしようもない諦観が底に流れている。あるべき蒸せ返るような暑さ、汗臭さが感じられない。

お雪は生まれついての癒し系なるか、さながら泥中の蓮花にして物腰たおやか、稼業は群がる鯉か鳩に餌をやるが如し。そのやわやわと天然なる肢体にいづれの客もが自分とのみ情交ありと疑わぬは誠に奇なり。先生、こんな感じでしょうか?

やがてお雪は二人の幸せな未来を妄想するようになり、男は通いづらくなる。その夢は綿菓子のように膨らんで甘く誘うが、触れた途端しぼむことが分かっている。夢見る女の幸せな顔はいつまでも見ていたいくせに、女神がただの女になってしまうのも惜しい。雨降りしきるどぶ川、向こう側への郷愁を、愛と呼ぶにはあまりに身勝手ではなかろうか。






2022年4月7日木曜日

新薬開発のドラマ

 いつか観た映画『レナードの朝』(1990 アメリカ 原題:Awakenings)が先日NHKBSで放送されていた。脳炎後のパーキンソン症候群という、ほとんど植物人間状態の患者を研究熱心な医師が新薬で治療を試みる話である。Oliver Sacks(1933-2015)という英国人の神経医による実話の原著に基づいて、映画の脚本が創作されている。(以下ネタバレ注意)

1960年代、主人公の医師は開発されたばかりの新薬レボドパ(L-ドーパ)を使って30年間眠り続けた患者を覚醒させることに成功する。人生を取り戻し生きる喜びを感じるも束の間、薬の耐性により次第に量を増やしても効果が出なくなり、患者は再び元の状態に戻ってしまう。なんとかして希望を与えたい医師、高価な新薬を使うため寄付を惜しまない同僚や援助者、自分の姿を映像に撮って研究に役立てて欲しいという患者。今は広く使われている薬剤にも物語がきっとあるだろう。私の父も1970年代、抗うつ薬の治験で救われた一人と聞いている。

主演のロバート・デ・ニーロが役作りのために実際の患者の姿を観察し出来るだけ忠実に動きを再現した、と映画雑誌のコラムにあったのを覚えている。脳神経内科医も医療介護系学生に観て欲しいと言っているほどだから(c.f. 長谷川嘉哉先生のブログ)映画制作の真剣さが窺え、病気の苦しみや悲しみ、恋のせつなさが伝わってくる。偏見や絶望感と生きる神経病患者に本当に寄り添うことのできる医師はわずかしかいないし、滅多に会えないから著作が注目され映画にもなるのだろう。

最近、新型コロナの後遺症がなかなか治らない人がいると聞く。難病ではないが身体が元に戻らない辛さはなかなか理解してもらえないという。少しずつ研究が進んで治療薬が出てきているようだが道半ばであり、ウィルスも症状も薬の開発についても分からないことばかり。時代のせいか映画の治験は人体実験までいかなくともやや乱暴な感じだが、海外ではそんなものなのかもしれない。新型コロナのワクチンだって不完全のまま使っているのが現状で、副反応が強く出る人も少なくないのに安全だと太鼓判を押される。

この映画の症状については、原因の脳炎そのものの治療が進んだことで、現在ではここまで症状が悪化することは稀という。全体からすると僅かな数であっても、治らなかった辛い症状の人にも希望を与える医療が続いて欲しいと思う。それが実現できる平和な世界であって欲しいと願う。



2021年8月29日日曜日

むなしさを満たす空気

 『空気人形』(2009年アスミック・エース 監督:是枝裕和)を観る。人間関係に疲れた男の部屋にある型落ちのラブドール、名前は「希望=のぞみ」。ある朝なぜか「心」を持ってしまい、男が出勤すると外の世界に歩き出す。レンタルビデオ店でバイトしたり恋をしたり、言葉を覚えてだんだん人間らしくなっていく一方で、代用品でしか存在できない自分に苦しさを覚える。そして出会う人はみな心に虚しさを抱えて、人を愛し共感し繋がることから遠ざかっている。ある日持ち主の男は新しいラブドールを買ってくる。心を持った人形を見て男は「できたら人形に戻ってくれへんかな?人間は面倒くさいんや。」と。ビデオ店の青年(井浦新)は人形に空気を抜かせてと求めてくる。

人形でないとダメなんだ、そう思われた時人形は心を持ってしまうのだろうか。身体は空っぽのままなのに、空っぽだから必要とされることも気付かないで。もう10年以上も前の是枝作品だから最近のものより刺激的かもしれないが、さまざまな隔たりを感じる今にこそ素直な気持ちで観て欲しい。命と心の居場所について、人間が人間らしくあるとはどういうことなのか考えてみたい。コロナ禍の今は程度の差はあれ誰もが人との関わりを薄くせざるを得ない状況だから、心に空洞を抱えているような感覚はじんわり沁みる。

人形は自分を作ってくれたラブドール工房の男に「生んでくれてありがとう」と言って、心を持ったことは後悔しなかった。役目を終えて廃棄されることは哀しいばかりではなく、その点では人もモノも大きくは違わないのかもしれない。できれば空気以外のもので満たされたいけれど。



2021年8月21日土曜日

Long Goodby

 『長いお別れ』(2019年アスミック・エース 原作:中島京子)を観る。認知症が徐々に進行する父を中心に、妻と姉妹の見守り・介護7年間を描く。寡黙で不器用だが優しい素直な一面もあってか家族に愛され、家族の意識が常に「お父さん」中心にある。その辺りが少し現実味に欠けるというか、もちろんそういうご家庭もあるだろうけど、娘の仕事や家庭に配慮なく呼びつける母親(松原智恵子)とそれに疑いもなく従う娘たちに違和感を感じた。妻が夫を介護するのを当然とは言わないが、お互いに扶養義務がある以上責任はあると思う。娘の姉の方(竹内結子)は米国在住で夫婦仲は黄色信号かつ息子は不登校、妹(蒼井優)は不毛な恋愛に振り回され仕事も上手くいっていない状況だ。「お父さん」に7年もしばりつける母親の考え方には共感できないのだが、私が薄情なんだろうか。

その一方で、山崎努演じる「お父さん」はどんどん認知症が進行し、夫でも父でもなくなっていく。いつか憧れたかもしれない、責任とか役割から解放された状態なのだが、人は自由になって幸せなんだろうか。穏やかな人はボケても穏やかに、というのは義母や実家の父の例を見てもそう思う。ただし初めからそうなのではなく、不可解な行動と排泄の失敗に家族はパニックを起こす。万引きなどやられたら、優しい気持ちなど吹っ飛んでしまう。記憶があやふやになるとともに性格にも特徴がなくなり、肉親がまるで知らない老人になってしまうのは、なかなか受け入れ難い。実際、認知症でなくても老化は即ち個性を失うことでもあり、この世からゆっくり退いていく「長いお別れ」なのだ。

若い頃はただ死は恐ろしく、もっと生きたかったと苦しみながら消えていくのだと思っていた。ところが中高年になると不思議に恐怖は薄れ、次第に「彼岸」が懐かしい人のいる場所へ変わっていった。しかも超高齢や認知症の人は病気でもあまり痛みを感じないようで、周囲としてはそれが救いになる。どんな死に様もその人の生き様なのだが、私の時は長引くことが無いようにと願う。




2021年6月8日火曜日

浮世の「波」に漂う

世界で最も愛されている浮世絵といえば写楽でも歌麿でもなく、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」だろう。先月公開された映画「HOKUSAI」も、葛飾北斎の「波」誕生の物語だった。享年90歳、残した作品3万点、酒は飲まないが生活は破茶滅茶だったと伝えられる。

はじめは勝川春章の弟子となったから当然売れる絵として美人画も多い。艶っぽい絵も多い鳥居清長の影響が濃いというが、映画で歌麿に「手前ぇの絵にゃ色気がねぇんだ」と言わせているように、関西弁でいうシュッとした感じが特徴。荷風先生が喜ぶようなキツネ目柳腰のねっとり系ならぬあっさり系だろう。

ところが北斎50歳くらいの肉筆画「合鏡美人図」ではだいぶ雰囲気が変わってきている。艶っぽさの中にちょっと不自然なポーズが実にキュートで、結構がっつりした腕や足先に若い健康美も感じる。北斎漫画に描かれる人物や動物が愉快で元気なのも共通するところだろう。

90年も生きれば文化文政の時代でも流行や人の嗜好に変化を感じたはずだ。舶来の顔料プルシアンブルーを入手したことも作品に大きな「波」をもたらした。映画では表現の自由を押さえつける権力は繰り返し変わらないと訴えていたが、文化芸術が権力への抵抗になったらそれは一つの暴力になる。確かに北斎本人もお上の風紀取り締まりに悔しい思いをしたかもしれないが、なんだかんだで上手に生き抜いたところをもっと評価してもいいのにと思った。







2021年2月12日金曜日

執着の縛りを緩める

 黒沢清監督の『岸辺の旅』(2015年日本・フランス合作)を観た。原作の小説は湯本香樹実によるもので、代表作は『夏の庭』になるだろうか、これも映画化されている。

3年前に失踪した夫の優介が突然、妻の瑞稀の元に帰ってくる。優介はすでに死んでいるのだが、失踪の3年間に世話になった所を訪ねる旅に一緒に行こうと瑞稀を誘う。そこには生と死、彼岸と此岸のあいだに立ちすくむ人たちがいて、やがて思いを伝え、あるいは諦めて彼岸へ旅立っていく。

伝えたかった思いが死によっていつまでも凍結されてしまって、抜け出ることができない苦しみ。親しい人の死を受け入れられなかったり、その死が自分のせいだと責めたり。もしも彼岸の岸辺で死者と出会い、ひとときを過ごすことができたならどんなに心が救われるだろう。

根本は愛情であるはずなのに、いつの間にかエゴや執着が湧き出してイバラのように絡みつく。シンプルにその人を愛するなら、その人がその人らしくあることを願うはずなのに。能楽の世界なら執着に苦しむ人間は鬼に姿を変え、その面には怒りと悲しみが混在する。

映画ではその執着も醜いものとは捉えず、むしろ人間らしいとして寛容に受け止める。結界の向こうにも思いは通じるし、肉体のあるなしも実は大した差はないのかもしれないが、時には何か確信が欲しくなる。彼岸は遠くない、死は沈黙ではないと。



2021年1月12日火曜日

毎日がよい日であること

 最後に映画館に行ったのは是枝裕和の「万引き家族」を一人で観た時だったと思う。ちょうどその日は河瀬直美の映画の封切りで中年女性がゲートを埋めており。その「万引き家族」の始まる前に映されたのが「日日是好日」。予告を見るだけで大体ストーリー展開は予想できたが、やはり記憶には残っていた。その時はまだ樹木希林さんが存命で闘病中とも知っていた。

先日オリジナルの文庫版を古本で手に入れたので一気に読む。サブタイトル「お茶が教えてくれた15のしあわせ」の通り、二十歳の女性が茶道を習い始めてから25年間に見たこと感じたことを真っ直ぐに伝えていて爽やかな気持ちになる。

小習から始めて盆点までお免状をもらって更に教授者になって、着物や茶道具など揃えてとそれこそ一生続いていくお茶の世界。もう本当にハードルが高くて一部の人だけの楽しみになっていくのは仕方ないのだろうか。特に人が狭いところに集まって催すことができない昨今は、伝統芸能全般にとって厳しい環境といえる。

茶道の心得などほとんどないけれど、引き出しから帛紗を出してみたら捌き方だけは覚えていた。えらいもので若い頃に繰り返したことは手が覚えているらしい。この本に出てくるのはおそらく表千家のお点前で、帛紗をパン!と鳴らす所作がある。

タイトルの通り「日日是好日」は毎日が良い日、降っても晴れても、くらいの意味なのだそうだ。英語でcome rain or come shine と歌にもあるが、天候に関わらずどんなことがあってもというのではちょっと重たい。雨の日は雨の音を聴き、晴れの日は光を感じて毎日を暮らす軽やかさが、ここにある。



2020年12月29日火曜日

住まいについて

 築35年になるこの家は親からもらったもので20年あまり住んでいる。初めて空っぽになった家に入るとまるで能舞台みたいに声が響いて天井吹き抜けの玄関が寒々しい。もう3月も終わりだというのにカーテンもカーペットもないフローリングは底冷えして、それまでの集合住宅の2DKとは比べ物にならないほど広く感じた。

前の家主は脱サラして大阪で奥さんの実家の家業を継ぐとかで、義父と共同名義だったというわけだ。2階は夫婦の寝室にお子さんの個室が二つ、たんすが置かれていた場所すら壁紙や畳の傷み具合で分かる。リフォームは後でゆっくり考えようとそのまま引っ越してきたが、15年分の生活感はそこかしこに残っており、掃除に明け暮れた。

広いと感じた家も20年経つと4人の大人が住むにはギリギリで、5人いた時は子供が小さいうちは何とかなったがプライバシーを保つのがかなり厳しかった。人数によって伸びたり縮んだり、他の土地へ持って行けたらいいのに、なんて遊牧民みたいなことを考える。もし長生きしたら小さな家で少ない荷物と静かに暮らしたい。

ずいぶんまえに「つみきのいえ」というアニメーションを見た。ふとしたことでレンタル映画のリストに見つけてもう一度見たくなった。加藤久仁生という日本のアニメーション作家による12分の短編映画である。水の中に沈んでゆく街で積み木のように上へ上へ家を作って暮らす老いた男。セリフは一切ないし音楽も控えめで非常にアーティスティックだが、登場する事象のひとつひとつが積み重なる人生を表現し、深く包み込まれる。









2020年11月25日水曜日

愛しのアマポーラ

 この家に引っ越してきた頃、手入れの悪い生垣がフェンスを覆っていたので何年か後にすべて根元から切ってしまった。すると今まで日の当たらなかった地面から雑草が生えてきたので、何かグランドカバーになる植物をと思って色々植えてきた。ここ何年かは空き地用のミックスフラワーの種を秋に蒔いておいて、春から初夏にかけて色々な草花を咲かせている。不思議な形のした種もあって種まきも楽しいし、名前も知らない草花が次々咲いて面白い。繁殖力の強いものは、こぼれ種で殖えて年中小さな花をつけたりする。

種を蒔くと雑草の芽と区別がつかなくなって、これもまた成長して花をつけたりして抜くタイミングが遅れたりする。外来種で駆除が推奨されているナガミヒナゲシなどもオレンジ色のかわいい花をつけたりするが、ケシだけに細かい種を撒き散らしコンクリートの隙間でも立派に咲く驚くべき繁殖力を見せてくれる。ミックスフラワーに入っているヒナゲシは品種改良のせいかそれほど繁殖力はないようだが、アグネスチャンが歌っていた丘に咲くヒナゲシは雑草レベルのたくましさに違いない。私はあんぱんの上にのっているケシの実が好きだ。

ヒナゲシは漢字で雛芥子、別名で虞美人草、英語でpoppy、仏語でCoquelicot、スペイン語でAmapolaである。夏目漱石の小説では虞美人という名前に影響されてか不健康な艶っぽい女のイメージでタイトルに採用されたようだが、ヨーロッパ系の言葉からは若くて元気いっぱいな感じがする。ポピーはつぼみが弾けるように咲くことから、コクリコは雄鶏のとさかだとか。赤とか黄色とかはっきりした色で、ペラペラヒラヒラした花弁が細い茎の先でフラフラ揺れているのは軽薄な感じでもある。

アマポーラは何故か真っ先に山下達郎を思い浮かべてしまったのだけど、スペイン出身の作曲家ホセ・ラカジェが1924年に発表したポップ・ミュージックで多くの人がカバーしている。言わずものがなヒナゲシの花を愛しい人に見立てたラブソングで、テレビCMで沢田研二が歌ったり、ロバート=デニーロ主演のギャング映画『Once upon a time in America』でエンリオ=モリコーネが挿入歌として甘くまったりと編曲したのが大ヒットした。テノール歌手が朗々と歌うならば、これはもう抱え切れないほどの花束にしてもらおう。




2020年11月3日火曜日

ハイカカオコロニアル紀行

 カカオ豆の価格が高騰すると言われながらカカオ含有量の多いチョコレートが人気である。入手困難と思うほど欲しくなるのが人情で、産地別に食べ比べしたくなったりする。ワインのことは分からないがコーヒーなら多少飲み比べもしたので、チョコレートも違いが分かるかもしれない。

日本が輸入するカカオ豆の約7割を占めるのがガーナ産で、他にはコートジボアール産、ベネズエラ産、エクアドル産が入ってくる。珍しいところでブラジル、キューバ、ドミニカ共和国、ベトナム、と赤道を中心にコーヒーが育つ緯度の国々ならカカオの栽培はできるようだ。

ブラジル産というチョコを試食してみた感想。食べ慣れた味とあまりに違うので「えっ!」という驚きがあった。練り具合や温度などでも違ってくるのだろうが、強い野趣味と動物的な香り?がブラジルの特徴なのだろう。コーヒーでもモカは酸味が強いとか、ブルーマウンテンはバランスが取れてベトナムはローストが独特というような特徴を専門家が沢山書いているが、素人は好き嫌いで選ぶのみ。今のところナッツ感のあるベネズエラに軍配をあげたい。

コーヒー、紅茶、チョコレート、タバコ、砂糖と欧州が大航海時代以降植民地で手に入れた嗜好品には、味や香りやアルカロイドの効果以外に異国への強烈な憧れと野心がかぶさってくる。毒か、薬か、無意識に海の向こうのパワーを取り込むべくチョコレートを食べるのではないだろうか。ホテルのインテリアなどでコロニアルスタイルとか、本当に意味わかって言ってるんかと思いつつ、富が集中すれば不幸な歴史を忘れるほど魅力的なものが生まれるのも事実。嗜好品は少々高くても我慢して量はほどほどに。

植民地ときて思い出した映画『ピアノ・レッスン』(The Piano 1993年 参考:映画ウォッチ)19世紀スコットランドから写真一つで未開の地ニュージーランドに嫁いでくる女性の話。女性は失語症で話せないし連れ子もいる。ピアノだけは手放したくないと無理を言って船に乗せて嫁いでくるが、夫はピアノなんて重い物持ってくるなと運んでくれない。現地人に同化した不思議な男が浜で弾く女性の姿に惹かれ、ピアノを夫から土地と交換で買い取って黒鍵の数のレッスンを条件に返却する約束をする。

当時学生だった私はR指定のラブシーンもさることながら、指を切り落とすいう強烈なDVがあまりにショックでその後の内容がおぼろげになってしまっている。本当の見所はそこでなくて、最終的に和解してからの新たな展開の部分だ。カヌーからピアノを海に沈め共に心中すると思いきや、引き揚げられて男と娘の三人で新しい生活へ向かう。北の町で擬指をはめて新しいピアノを軽快に弾く姿は、ひたすらに粘り強い。






2020年7月22日水曜日

瀬戸内シネマパラダイス

モリコーネの逝去で関連の映画音楽が注目されている。思い浮かぶのはなんといっても「夕陽のガンマン」のテーマだろうか。もの哀しい口笛にネイティブアメリカーンな乾いた埃と汗と馬の匂いがする。

10代の頃、洋画は母の影響で結構古いものも観た。『夕陽のガンマン』でも大概昔だと思っていたが、クリントイーストウッドの初主演ドラマが『ローハイド』だと知って改めてこの人も長く活躍してるなぁと思った。『ダーティーハリー4』『マディソン郡の橋』など知る限り爺さんというイメージなのだが、ずっと映画界にいるというのは偉大だ。

モリコーネが音楽を担当した『ニューシネマパラダイス』(伊: Nuovo Cinema Paradiso 1988)の舞台は、戦後間もないシチリアの教会跡を使った映画館。いつか母が語ってくれた子供の頃の記憶と被って、見たこともない景色がそれとなしに浮かんでくる。

戦後肺結核を患ったが九死に一生を得た祖父は町工場を復興した。その工場の落成式の日、祖母は34歳の若さで亡くなった。結核が伝染っていたのに大した治療を受けることができなかったのだ。残された母と叔父はよく山口の祖母の実家へ預けられていたそうだ。山口の田舎町には映画館が1軒あって、11歳かそこらの母は地元のおじさん達に紛れてしょっちゅう潜り込んでいたらしい。任侠ものだのサイレント映画だのジャンルを選びようもなく、寂しさを紛らさせる格好の場所だったという。

夏休みが終わりに近づいて祖父が大阪から迎えにくると、決まって祖父の再婚話が聞こえてきて、叔父がまだ小さいのに可哀想だとか母だけ山口においていけとかが耳に入ったそうだ。祖父はその後何度か見合いをしたというが、必ず母を同席させるのだ。わだつみ世代で婚期を失った女性でも、思春期の娘を見合いに連れてくる男にはドン引きだろう。最初からその気がないのか、家事をして母親の務めを果たすなら結婚してもいいくらいの態度なのか。結局見合いは成立せず、同じく婚期を失いこのまま義妹でいいなら嫁になりますと来てくれたのが、今の私の祖母である。

漁師町のきつい日差し、田舎の映画館の看板が一つの原風景となっている。

2020年5月13日水曜日

野苺は甘く渋く

庭で放ったらかしにしている苺が実をつけている。栽培にはビニルハウスなど温室を利用するので今や立派なブランド苺が1月や2月に旬を迎えるが、露地栽培では4月頃花が咲いて5月に実がついて赤くなる作物だ。

肥料をやったりマルチング(敷き藁やポリ袋で地面を包む)する年もあるけれど、大抵は面倒で観賞用と思ってあまり期待していない。というのも虫や鳥に大半を食べられてしまうので、つぶれた苺の甘い匂いが立ち込める中、無事な実を這いつくばって探すのが苦痛だし、無農薬なのでダンゴムシやなめくじとも仲良くやらねばならぬ。味の方はまぁまぁいける、かな。

一般的な品種に一つだけ観賞用のワイルドストロベリーが混じっている。葉っぱの付き具合が食用と違っており花も実も小さい。食べられないことはないが種が多くて固くあまり甘くない。欧州ではウェッジウッドを筆頭に図案にも好んで用いられる。

思春期の女の子向け推薦図書に必ず挙がってくる、梨木香歩『西の魔女が死んだ』で中学生の まい と祖母が裏山で摘んでジャムにするのもこの品種。英国人の祖母が「Wild strawberries」とわざわざ言い換えるのも、一度かじってみれば日本の甘くてジューシーな苺とは全く違うから納得だ。

伴侶を亡くした悲しみの中、登った裏山に昔捨てられた畑があって、そこに野苺の花が咲いていた。それから歳月が過ぎ、「今年は まいが手伝ってくれました。」嬉しそうに丁寧にジャムを煮る。ふとしたことで学校に行けなくなった まい であったが、何を感じたろうか。

映画化もされたこの作品、控えめな演出で映像が美しい。

モーニングページを始めようと思うけれど

とり合えず始めてみようということが、できない。たぶん消しゴムを使うことに慣れると、そばに消しゴムがないと落ち着かなくて勉強できなくなったりするようなものかとも思う。だからこそ手書きでどんどん買いていく作業が私には必要なのかもしれない。 もやもやする、何か上手くいかない、そんな時に...