2022年8月31日水曜日

コロナでイカキング

 今月初め、実にあっけなく新型コロナ・オミクロン株BA.5に感染してしまった。発端は次男が友達と旅行の計画などを打ち合わせるために大阪の繁華街で食事をしたことだと思う。次の日に教習所から帰った次男の食欲がなく、その夜から発熱38度。残りの家族3人は完全に濃厚接触者となった。

これは発熱外来に届けなければと病院数件に電話をかけるが、若い人はご遠慮くださいと断られ、保健所の発熱相談ホットラインは何度かけてもつながらない。そうこうしているうちに自分も熱が上がってきて横になっていないと耐えられなくなってきた。あとの二人は接触から3日目、5日目に発症している。いずれもワクチンは3回接種しており熱は上がったり下がったりをくりかえした。

次男はというと発熱は2日間であとはケロッとしており流石は10代だけあって治癒能力が違う。51歳女は4日目にしてようやく熱が下がったが、その後も気持ちの落ち込みや咳や鼻詰まりに悩まされ2週間かかってようやく元通りになった。

感染症法に従うなら2種感染症に罹患の恐れがあれば保健所に届出ないといけない、くらいは知っている。しかし発熱しても診察を断られ抗原検査もしてもらえない上に、街頭で行われている無料検査は既に発症している人は対象外なのだ。どうにか朝いちで並んでドライブスルー検査できた夫は自宅療養者対象の保険料が2日分ほど支給されるようだが、それもあまりに対象者が多いという理由でもうすぐ保証対象から外すという。結局予算ありきで一般民衆は切り捨てられる運命と、ますます虚無的になる。

石川県能登町で地方創生臨時交付金いわゆるコロナ交付金2500万円を、巨大スルメイカモニュメント建設に投入し地元から無駄遣いと批判を浴びたという。ところがその経済効果は建設費2700万をはるかに上回る6億円の経済効果があったとして見直されているとか。不正自給の摘発にさらなる費用をつぎ込むくらいなら、バカバカしい無駄遣いもアリだなと思ってしまう。

2022年8月27日土曜日

終の住処

 高齢になる父の暮らしている施設でコロナのクラスターが発生して1ヶ月。職員は全員治って復帰したが、利用者の回復が芳しくない。父も肺炎を起こしてしまい、この第7波でなかなか病院に空床が見つからない中、なんとか入院先を探してもらった。

かくいう我が家も4人とも時間差で感染し、何日も高熱が続いてつらかった。いくら毒性が弱まったとはいえ普通の風邪ではなく、50代の身体からは完全に抜け切るまで2週間はかかってしまった。抵抗力のない高齢者や基礎疾患のある人は大変なダメージを受けてしまうから、本当にかからないようにしないといけない。元気な人もかからないに越したことはない。

日本は第六波まで密を避けマスクをし手指を消毒して行動制限をかけてきた。だから重症者、死者の数が少ないレベルで収まっていたのだ。これからは亡くなる人が増えてくるだろうし、病床は逼迫した状態が続くだろう。

父が施設に移ったのはインフルエンザでせん妄状態になり、既に認知症が進んでいたのでいよいよ自宅介護が難しくなったからだった。施設では穏やかに過ごしていたようだが、やはり早く家に帰りたかったし必ず帰れると思っていた。実際初めの1年くらいは母が面会に行くと、いつ帰れるかいつここから出られるのかとそればかりだったと聞く。認知症が進むとだんだんそれも言わなくなったが、時々まだら惚けというのか頭がすっきりする時があって、険しい表情で「もうワシええわ」というのを母は聞いたと言っていた。

最後に私が面会に行った時は終始穏やかにニコニコ、言葉はだいぶ出なくなっていた。施設の毎日がどうにもうんざりで何もかもが面倒臭く、スタッフに励まされてなんとかやるけれど出来れば目をつぶって静かにしていたいと訴えていた。最後に「もうそろそろええなぁ、うん」と言い、車椅子を押してもらってニコニコしながらエレベーターで手を振っていた。

父が帰りたかったのはどの時代のどの家のことなのか分からない。ただそこにはきっと母がいるんだろうし、自分ももっと若くて元気で、そこに子供がいるとしても小学生くらいじゃないだろうか。結局終の住処は帰るべきところではなく、帰りたい家は思い出の中にしかないのかもしれない。だから施設に入れて可哀想だとか、自宅に帰らせてあげたいとか安易に考えないで良いのだろう。

それでも母のいる家で一人静かに過ごすのが何より心休まる時間だっただけに、それも諦めることになったのはさぞ不本意だっただろう。どうしてこうなってしまったのが理解できないまま、施設で寂しさと闘った日々があったかもしれない。お父さん偉かったねもう十分頑張ったよと言ってあげたい。


2022年8月9日火曜日

活躍しなくても

 お盆が近くなると店頭に廻り灯籠や迎え火の用意など各種グッズが並び出す。祖母が元気な頃のお盆行事は迎え火に始まって、仏壇に三度の御膳を並べ、檀家を原付で一軒一軒大急ぎで回る住職に棚経をあげてもらい、16日の朝にはあらめの煮汁を門にまくという謎の儀式をする。お精霊さんは朝には去んでもろて一日京都見物を楽しんでもらいまひょ、というのが我家流。ただし祖母は岡山の生まれで少女期に京都に一家で移り住んできたから、これは全て嫁に行ってお姑さんに習ったことばかり。

祖母の実家は山陰線の駅に近く、木炭を商いするには便利なところだったらしい。炭の粉だらけの荷物を入れたり出したり、結構荒々しい商売ではなかったろうか。祖母の父は虎次郎という名に負けないくらい豪快な人だったという。さて祖母の母の方はというと、お内儀さんらしいことは何一つしないものだから使用人にも呆れられていたとか。京都のしきたりも、商売のことも分からないまま、干渉もされず自己主張もせず淡々と穏やかに生きたそうだ。晩年は長男夫婦のいる宝塚に移って90歳を越えるまで元気に過ごしたという。

今まで生きてきて、何にもできなかったなーと思ってしまう時、なぜか活躍しなかったご先祖の話を思い出すのが心地よい。みんないろいろ想いがあって、毎日買い物したりご飯作ったりしてたのねと思うと少し元気になる。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...