2022年8月27日土曜日

終の住処

 高齢になる父の暮らしている施設でコロナのクラスターが発生して1ヶ月。職員は全員治って復帰したが、利用者の回復が芳しくない。父も肺炎を起こしてしまい、この第7波でなかなか病院に空床が見つからない中、なんとか入院先を探してもらった。

かくいう我が家も4人とも時間差で感染し、何日も高熱が続いてつらかった。いくら毒性が弱まったとはいえ普通の風邪ではなく、50代の身体からは完全に抜け切るまで2週間はかかってしまった。抵抗力のない高齢者や基礎疾患のある人は大変なダメージを受けてしまうから、本当にかからないようにしないといけない。元気な人もかからないに越したことはない。

日本は第六波まで密を避けマスクをし手指を消毒して行動制限をかけてきた。だから重症者、死者の数が少ないレベルで収まっていたのだ。これからは亡くなる人が増えてくるだろうし、病床は逼迫した状態が続くだろう。

父が施設に移ったのはインフルエンザでせん妄状態になり、既に認知症が進んでいたのでいよいよ自宅介護が難しくなったからだった。施設では穏やかに過ごしていたようだが、やはり早く家に帰りたかったし必ず帰れると思っていた。実際初めの1年くらいは母が面会に行くと、いつ帰れるかいつここから出られるのかとそればかりだったと聞く。認知症が進むとだんだんそれも言わなくなったが、時々まだら惚けというのか頭がすっきりする時があって、険しい表情で「もうワシええわ」というのを母は聞いたと言っていた。

最後に私が面会に行った時は終始穏やかにニコニコ、言葉はだいぶ出なくなっていた。施設の毎日がどうにもうんざりで何もかもが面倒臭く、スタッフに励まされてなんとかやるけれど出来れば目をつぶって静かにしていたいと訴えていた。最後に「もうそろそろええなぁ、うん」と言い、車椅子を押してもらってニコニコしながらエレベーターで手を振っていた。

父が帰りたかったのはどの時代のどの家のことなのか分からない。ただそこにはきっと母がいるんだろうし、自分ももっと若くて元気で、そこに子供がいるとしても小学生くらいじゃないだろうか。結局終の住処は帰るべきところではなく、帰りたい家は思い出の中にしかないのかもしれない。だから施設に入れて可哀想だとか、自宅に帰らせてあげたいとか安易に考えないで良いのだろう。

それでも母のいる家で一人静かに過ごすのが何より心休まる時間だっただけに、それも諦めることになったのはさぞ不本意だっただろう。どうしてこうなってしまったのが理解できないまま、施設で寂しさと闘った日々があったかもしれない。お父さん偉かったねもう十分頑張ったよと言ってあげたい。


どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...