2022年6月26日日曜日

コミュニティに暮らす

 映画『幸せなひとりぼっち』(En man som heter Ove 2015 Sweden)を観る。2015年スェーデンで大ヒットしたというが日本ではテーマが地味なだけにミニシアター止まりだろう。邦題も紹介文も寂しい老人丸出しで中高年から敬遠されてしまったとみえる。原題は英語でA Man Called Oveだから「その男、オーヴ」とか「ある男の話」でも構わなかったのにと少し残念、それで中身が変わるわけではないが。

妻に先立たれ、挙げ句に工場ラインの仕事も早期退職を促され、生きる気力を失って何度も自殺を試みるオーヴ59歳(役者さんはもっと老けて見える)。頑固で陰険に見える彼の人生は幸に薄く、やるせない怒りや悲しみを抱えて生きてきた。近所の人は腫れ物にでも触るような対応だが、その心を開いたのは隣に引っ越してきたイラン人女性だった。スェーデン人の気の弱い夫と娘が2人、お腹に1人。大阪のおばちゃんのノリでとにかく遠慮なく助けを求めてくるので、自殺も忘れてあれこれ怒りながらやるうちにご近所とのわだかまりも溶けていく。

社会インフラ、高齢化、医療、介護、子育て、移民、孤独死、よくある社会問題であり先進国共通の悩みだ。映画はファンタジーだし、こうは上手くいかないのが現実なのだが、自分達で何とかできるかもしれない希望的観測が彼の国でヒットした理由かと思う。日本では最近、社会問題を取り上げても陰湿で光が見えない映画が目に付くのはなぜだろう。

コミュニティで助け合いを実行するには多少暮らしをオープンにしなければならないし、好き勝手に行動して良い訳ではない。プライバシーを守り過ぎれば孤独になるし考えも偏る一方で、あまり開放的だと個人の生活が他人の意思に振り回される危険もある。多様性の中でちょうどいい均衡を保つのは簡単ではない。犬猫や子供は緩衝材としてとても有用だ。

それにしても映画に出てくるオーヴの奥さんが素敵すぎる。墓前で「これから首括ったら午後には会えるかな」そんな情けない台詞に納得してしまうくらいだ。




2022年6月20日月曜日

空白を埋める

 梅雨の季節がやってきて、ふと我が家に乳幼児がいた頃のことを思い出す。赤ちゃんは身体のほとんどが水分だから一日中水分補給して蒸散排出している。抱き上げると互いの体温で蒸し饅頭状態になるし、とにかく湿度の高い日々。笑ってしまうほど野生的な毎日がたまらなく懐かしい。

じつは私には弟や妹がいないせいか、赤ちゃんのいる環境がずっと苦手だった。湿気て乳臭い母子がどうにも気味悪く、友達が妹ができたのと嬉しそうにしていても少しも羨ましくない。ミルクとおむつが同居する悪臭の中で泣き叫ぶ得体の知れない獰猛な生き物のどこが可愛いのだと思っていた。

「一人っ子だから変わっているのよね」と良くも悪くもそう大人たちに評価されてきた私だったが、自分の身体の変化が耐えられないとか子供を愛せないとか枠から外れた人のことが取り上げられる時代になって改めて考えてみる。パンダだって子育てできる母ばかりでなく産んでも育児放棄するの少なからずいるそうではないか。私は全然変わった子ではなかった、ただ自分の幼児期の話をされるのが嫌いで、今の自分も嫌いで、いつか「何者か」になるんだと本気で思っていた。

小学校高学年になると娘の身体つきになってきた同級生も多く、小さく発達の遅い私のことをいいわねと言った。当時ジュニア用下着などなかったし、体操服の下は何も着てはいけないことになっていた。帯下は5年生くらい、胸が固くなってきたのは6年生くらいだったかと思う。見た目あまり変わらないので知らんふりして過ごしていたが、下着は気持ち悪いし胸はゴリゴリして痛いし女子トイレの汚物入れが恐怖だった。いつか自分もそうなるのかと、大人になりたくないと願いながら中学は女子校に進んだ。

女子校というところは、あけすけなだけにそれぞれに抱えている問題が浮き彫りになる環境だ。だから大人になりたくない女子も珍しくない存在でありがたかった。電車で痴漢にあっても友達同士日常的な話題としてのぼり、守り合って傷つくこともなかった。お金持ちの子たちはママが車でこっそり送迎してもらったりしていたが、今思うと防犯対策もあったのではないか。自分に娘がいたら同じことを心配したと思う。

私が女子校にいる間、当然ランドセルの男子はものすごい勢いで成長し、次に目にした時はビール飲んで騒いでいる輩になっていた。いま息子たちが大学生となって、ようやく分からなかった空白の部分が埋まろうとしている。男の子の成長を知ることで女の子の成長をトレースし、その違いよりもむしろ共通点を感じている。理解したい思いがそうさせているのだろうが、今時の若者が分からなくなったときも行ったり来たりの思考で近づくしかないのだろう。

そうだ、お腹の中で280日、産まれてから自分の見たことのある赤ちゃんに成長するまでも空白だった。お姉ちゃんになった友達は興味津々で一部始終を見ていたのだろう。

人は何らかの形で目にしたり、他のことから想像したりして足りない経験を補って生きているのだろうが、それがうまくいかなくなった時に誤解や嫌悪が生じるのではないかと思う。多くの場合、自分の体験した延長線上にあって根本は変わらないのかもしれない。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...