2021年5月30日日曜日

自分史デキゴトロジー

 あなたの卒業アルバムの巻末には、生まれてから卒業年までの時事ニュースがついているだろうか。こういうのを自分でやってみたいとステイホーム中に実行している人がいると聞く。おそらくアルバムにそういうおまけがなかった時代の人だろう。ジャズシンガーの綾戸智恵さんは動画で自分とその家族の出来事を模造紙に書いているところを紹介していたが、うちの母の場合はあくまで卒業アルバム仕様である。

では私が生まれたあたりの出来事を見てみよう。沖縄返還、ベトナム戦争真っ只中と重苦しい。四大公害訴訟の裁判が続き、環境庁が設立。あさま山荘事件。仮面ライダー放映開始、カップヌードル発売。ヒット曲だと小柳ルミ子「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」、加藤登紀子「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」、五木ひろし「よこはま・たそがれ」など。

昨今世界中でSNSなどネット上の表現の自由が連日問題になっているが、その頃表現の自由を巡って注目されたものに「四畳半襖の下張り事件」というのがあるのを最近知った。雑誌の編集長が、伝 永井荷風のエロ小説を月刊誌に掲載したのが刑法175条の猥褻文書販売の罪に当たるとして雑誌の社長と編集長が起訴された一件だ。論点は掲載作品が猥褻か否か、1審・2審ともに有罪、最高裁の判決やいかに。結論としてこの件は猥褻文書として有罪判決が出たのだが、司法を相手取ってマスコミに注目されたいが為との批判も多かったのではないか。

刑法175条で問われるのは社会・公共に対する罪であり明確な被害者が存在しない。50年ほどたった今、動画サイトやネット広告には日常的に性的・暴力的な表現が溢れており昔とは事情が大きく変わっている。また不快感により健康を害したとか、差別的表現が発言者の立場にふさわしくないと辞任を求めるなど、被害者の訴えによりその表現が与える影響力が問われる事例が目立つ。

荷風も当時の社会通念に従った内容で「四畳半」を発表し、別に書いた「春本版:四畳半」原稿は手元に残しておいたようだ。ところが弟子が勝手に持ち出し荷風作ということで広まってしまったらしく、戦後には出版社が摘発された関係で荷風は警視庁の事情聴取を受けている。もちろん春本版は偽作であって私は被害者だ、と本人は否定したとか。

「四畳半襖の下張り」は主人公が買った古家の襖の下張りに古人の書いたものが使われていたという設定で、こうした入子方式の小説は荷風の他の作品でも見られるという。あくまで一部の引用しか知らないが、文体は流麗な擬古文、人物心情の描写も細やかで文学的要素も十分。読破するにはそこそこ教養も必要だけに、令和の世には既に猥褻文書の範疇から外れていると言って良い。古文の苦手な10代男子にはこういうのから入門したら国語の成績もぐんと上がるだろう。

表現はいつだって自由であって欲しい。しかし受け手が不快に感じたり傷ついたりしないよう気をつけると共に、それが発信者の意図しないところで暴走しないよう見張っておく必要がある。

2021年5月25日火曜日

いづれの日にか国に帰らん

 先日実家に行った折のこと、私の曽祖父にあたる人の写真が飾ってあった。昔仏壇にあったものと同じで、明治の男らしく凛とした立ち姿である。なんでも母の従兄がその写真を見たことがないというので引き伸ばしたものを送ってあげるという。その従兄といっても80歳近いはずで、今になって自分のお祖父さんの写真の存在を知り母のところに電話をかけてきたという次第だ。

曽祖父には8人息子がいて、上から3番目の人は旧制高校を卒業後は田舎から出て大学に進んでいる。やがて教授の娘さんと結婚、婿養子に入って研究活動を続けることができた。太平洋戦争中は石油精製の研究者として南方に渡り、戦況が悪くなると米軍の捕虜となって収容所で亡くなったらしい。件の従兄はその人の帰りを待つ幼い息子だった。わずかに記憶する父親の面影が曽祖父の立ち姿に重なると、写真が届くやお礼の電話をくれたそうだ。

椰子の実 作詞:島崎藤村 作曲:大中寅二作曲 ギター:岡崎倫典

2021年5月17日月曜日

6月のメロン

 今朝のニュースで関西医科大学が「光免疫療法」という新しいがん治療の研究拠点を置くとのことだった。患部に投薬してレーザー光を照射する治療法で患者の身体に負担が少ないという。一昔前はがんになったら手術をしても1年かそこら保てば良いくらいの認識だったから、技術の進歩には大いに期待する。

今年日本列島は早々と梅雨入りしたが、この季節思い出すのは祖父の最期である。68歳で胆管癌が見つかった時はすでに末期、しかし本人は治る気満々だった。よって告知することなく無理な手術をして死期を早めたのだろう。最期は「これは癌だ。」と自分で悟り余命幾ばくも無いと知ると、会社の一部の人を除いて秘密裏にしておくこと、葬式の段取りなどを病床で母に詳細に伝えたそうだ。痛み止めの点滴は常時接続、脇腹には太い管が差し込まれており、激痛に耐えられない時はモルヒネを打った。

どんなに隠していても祖父の入院の話はどこからか漏れて、連日マスクメロンが祖父の自宅に届けられ、熟れて食べごろになったメロンが冷蔵庫に溢れた。だから40年近く経た今もメロンは苦手だし、自分もがんで死ぬんだという刷り込みがある。そんなものは紙の味噌汁...ではなく神のみぞ知る、なのだが。

病院の付き添いに始まって入院、密葬、社葬、社宅扱いにしていたゴミ屋敷の明け渡し、祖母のマンション探しと引っ越し、相続税の手続きなど母はよくやったなぁと思う。そんな話を本人にしたら、祖父の死の間際に何だかとてつもない性欲が湧き上がってきてびっくりしたと真顔で言ってきて、こっちが驚いてしまった。

先妻が亡くなった時「お父ちゃんの中にお母ちゃんが入ったぞ!」と言いながら祖父はその遺骨を飲み込んだと言うから、相当にアツい性格の親子とも言える。遺骨を食べる習慣といい、自称淡白な母の性欲といい、生々しくショッキングなイメージのつきまとう梅雨時はとにかく早く終わって欲しいと願うばかりだ。

2021年5月11日火曜日

笑って見送って

5月の連休は恒例のお庭バーベキューをして2kgの肉をすらっと平らげた。炭火を起こし始めてから火を消すまでの4時間、焼く→食べるの連続で何を話したかも覚えていない。

これまで家族でキャンプもするにはしたけれど、いい季節の時は誰かが忙しかったりして結局数えるほどだった。義母と同居していた頃、次男の友達一家が奈良県の十津川村に民家一軒借りてアウトドアを楽しむとのことで、他にも同級生たちを誘ってくれたことがあった。車がもう一台必要で、ママ友の一人が軽自動車に子供2人の隣に次男を乗せてくれるという。パパは大手スーパーの店長さんだからお盆休み返上で頑張っている。「それならうちの主人が車出すわ〜山道は釣りで慣れてるから。おっさんやけどよろしく頼むわ」てなことで夫の隣にママ友が座り、子供3人後ろに座って出かけていった次第である。

前日は我が家で子供達のお泊まり会をさせただけでクタクタになり、次の朝、夫と次男・他の子供らが行ったあと座り込むと急に悲しくなって涙がポロポロと止まらなくなってしまった。認知症の義母がいるから家を空けられないこともあるが、長男も半年後の高校受験に向けて遊んでいる場合ではない。ママ友のご主人も子煩悩な人だから子供とキャンプ行きたいに決まっているからある意味同じ立場だ。そんな事は分かっているのに、ただ羨ましく夫が憎らしく、自分が可哀想な存在に思えてたくさん泣いた。

次の日の晩、夫は帰ってくるなり山道ドライブの様子やピザ焼き体験など喋りっぱなしだった。よほど楽しかったと見えて5、6年たった今も繰り返し繰り返し次男がうんざりした顔をしてもお構いなしで、「次男よ、お前一生分の親孝行したな」と言ってやりたい。また夫が100%楽しかったと言ってくれたことには救われたし、男手が増えてパパ友も安心だったろうしその他安全面で一緒に行ってもらって良かったと心の底から思っている。

あの時どうしてあんなに悲しくなってしまったのか。思うにあれが家族でどっかへ行ったりして盛り上がる最後の夏だったのかもしれない。その後義母が亡くなって、息子の受験勉強が終わってもみんなでレジャーとかいう気分にならなくなってしまった。3年かそこらのうちに息子たちは成長して同級生の家族旅行の話に反応することもなくなった。あれはもしかすると単に子育ての節目の感傷だったのかもしれない。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...