2021年11月27日土曜日

手取り足取り

 寒くなって冬野菜が美味しくなってきた。白菜も大根も柔らかく、ほうれん草は渋みが少なくて甘みもある。母は自分が見よう見まねで料理をしてきたから教えられないと、あまり私には料理のコツを教えてくれなかったから家庭科の授業では初めてのことが多かった。今でもあまり家事一般に得意な方では無いが、レシピも作り方も動画サイトで何でも間に合ってしまう。エビチリソースの作り方もレモンジャムを煮るのもど素人からプロレベルまでたくさんあって自分の実力に合わせたやり方を真似してみる。何となくできた感じはあるけれど、満足感が薄いのは何故だろう。そもそも「習う」とはどういうことなのだろうか。

おばあちゃんが台所で細かく紅生姜を刻む音、友達が下宿のミニキッチンで器用にパスタを作る後ろ姿、野外で立ち上る豚汁の湯気、以前はもっと実感のある暮らしだったのにいつからこんなことになってしまったのだろう。たぶん自分が好んで分厚い殻に閉じこもってしまったからで、心の不調やコロナのせいにすることはできないのだが、少し見えていた光が今は背中にわずかに感じるのみだ。

ほうれん草には菊菜を少し混ぜて茹でて胡麻和えにする、白味噌のお汁に大根おろしを入れてみぞれ汁にすると温まる、もっと口づてに多くのことを知りたかったのに、その人のフィルターを通した知恵があまりに断片的で全然足りていない。単に隣で喋りながら見ていただけなのに、それがとんでもなく懐かしい。



2021年11月20日土曜日

国際ナントカの表裏

 ほぼ1ヶ月書けないでいたのは、頭に栄養素が回っていなかったせいかもしれない。正月おせちの予約などの季節になると、美味しいものへの興味が復活してきた。夏のオリンピックが遠くなり、ぼうっとしているともう冬の北京オリンピックの話題である。アメリカが外交的ボイコットを検討しているとのニュースが入ったが、これは国際競技会はただの運動会ではなく大いに外交的役割があることを思い出させてくれた。そういう意味で夏の東京オリンピックもどんな形であれやらねばならなかったのであり、2019年のラグビーワールドカップの折だって一般人が想像もつかないような要人同士の会談がスポーツ観戦にかこつけて繰り広げられていたに違いない。

もう昔のことになるがユネスコ世界遺産の国際会議が私の住む街で開催することになり、偶然にもボランティアクラブの紹介で書類作成等の短期アルバイトに入ることがあった。会期中は語学力が足りないのはもちろん、会議場の控え室に来てもほとんどできる仕事が無い上にまさかの妊娠3ヶ月。体調はすこぶる良かったし物珍しさと日当代欲しさに出てきたら、チーフの女性に「迷惑です」とキッパリ言われてしまいしょげ返ったのを思い出した。忙しいのに物見遊山で来やがって、という般若の表情が忘れられない。さもありなん、ありなんである。

当時途上国の国々にメールやFAXでアクセスするのは必ずしもスムーズに行かなかったが、世界遺産に認定されることで経済的メリットや観光資源としての期待が膨らんでいる時期でもあったので、どの国も参加には大変積極的だったように思う。そして世界遺産にかこつけて出張のついでに自国のアピールや、経済支援などの糸口を見つけようと日本に来た人も多かったのだろう。この程度の会議で滅多なことはないだろうが、思わぬトラブルがないとは限らない。

もう少し思慮深く、物事の表面ばかりに捉われていなかったらと思うことばかりだ。この世界ではケシ粒のような存在であっても、起こっている事柄が何を意味しているかまるで分からないままでいいのだろうか。あの時のあれは、こうだったのだと今更気づいてもせんないことである。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...