2023年6月15日木曜日

せいじにんを変換したら政治人だった件

LGBT理解増進法案が衆参本会議で可決し成立した。この法案はG7広島サミット前に成立させようとの動きから、異例の速さで立案・審議と進んだ。与野4党の修正案は、大多数の人への影響が少ない内容に変えられ、少し安心感が加わったが、それでも「差別」の内容は明らかになっていないし、ジェンダーアイデンティティ(以下、性自認と書く)やそれで困っている人への理解が、他の先進諸国と比較してどれほど「遅れている」かも明らかにしていない。わざわざ法律にするほどのこともないものを、これほど急ぐ理由は何なのだろう。

外圧、それから一般社団法人 LGBT理解増進会の立ち位置もよく分からない。修正案で削除された「民間団体等の自発的な活動の促進」をこの利権団体が制御するのだろうか。訳のわからない啓発活動の為に多くの税金が注がれるのだろうか。一方でこうした啓発活動を含め民間団体の勝手な行動についても、学校での教育や啓発について「家庭及び地域住民その他の関係者の協力を得つつ」と文言を追加することにより、堂々と拒むことができるようになった。官製LGBT教育の方がまだましだと思うよりない。

LとGは外見や行為でそれとなく分かることがあり、まぁそんなものかという認識でいる。英会話の豪パース出身の先生はGと公表していたし、カナダに行ったウクレレの先生もGだと思う。もちろんBかもしれないし、TかQという可能性もないではないがどっちでも良いことだ。向こうから歩いてくる人が犬好きか猫好きか、くらいどうでも良い話と思っている。

Tの問題点は多くの人が指摘している通り、女性の安全と権利を侵害することに尽きる。シス女性もL女性も身体が女である限り、Tの権利を過剰に擁護することで不利益を被る。競技においては性転換手術やホルモン値ではなく遺伝子でもって性別を判断すべきだろう。遺伝子の差を人種や個体差と同等に考えるのは無理がある。もし地球上の人類に決定的に体格の違う種がいたならば人種別の競技も必要だったかもしれないが、幸いにして人類はみなホモサピエンスである。フェアプレーとかハンディキャップについて、いま一度考えなくてはならない。

性的マイノリティは昔から一定数いたし、学校のような集団環境において当事者は相当な困難を抱えているのだろうと思う。学校というのはそれでなくても居心地の悪い子供にとっては生命を脅かす地獄のような場所であり、生半可な啓発授業で改善するようなものではない。それだけに教育現場にLGBT法連合会がするような民間の極端な啓発キャンペーンを持ち込んで欲しくないし、しっかりと規制してもらいたい。性自認に限らず、いじめで子供が自ら命を断つ社会のままで良い訳がなく、もっとお互いを尊重し合い、自尊心を高める教育でなければやらない方がマシだと思う。

一部の活動家は今回の修正案について、当事者にとって何の利益もないと抗議しているようだけれど、彼らにはおよそ妥協という考えはない。同性婚、夫婦別姓、配偶者控除、相続税優遇などを要求し、ラクダがテントに入ってくるようにずうずうしく母屋を占領してくるだろう。

国民の大半が何が起こっているのか理解しないまま、LGBT理解増進法はギリギリのところで骨抜きにすることができた。その意図は非常にわかりにくいが、新しい全体主義から社会を守る試みとして悪くなかったと思っている。宗教団体との関連を騒ぎ立てている隙に、新たなイデオロギーがすばやく政治に教育にすべりこんでしまった。まさかアベガーの人たちや環境活動家が全員LGBT擁護に回るとは思えないのだけど、親和性が高いのも気になる。本当にこの国では裏で何があってどこへ向かっているのだろう。

(画像は 福田ますみ『ポリコレの正体』)



性自認は本来あいまいなもの

2022年12月スコットランド議会で、法律上の性別変更の手続きを簡易化する法案が賛成多数で可決された。これによって性別変更申請は16歳から、客観的な性別違和の診断書なく自己申告のみで可能となった。具体的には、自分で今日から女になります、男になりますと役所に届を出せば即受理されるということ。 LGBTインクルーシブ教育の最先端を行くこの国では、4歳から保護者の同意なしに幼稚園や学校で名前と性別を変更することができる。

日本で今このままの法案が出たら、そんなバカな!と保守派でなくても反対多数で否決となるだろう。しかし日本でも「同性婚が認められないのは違憲」という判決が出ていることからも、同性婚を求める当事者が増えているというより人権活動家が勢力を伸ばしていると見るべきだろう。

自分の性別を意識するのはいつかといえば、やはり身体が大きく変化する性徴期になろうかと思う。身体の変化に心がついていかなくて、変に意識したり嫌だと思ったりするのは誰にでもあることで、そんな子供たちをそっと温かく見守ってやるのが年長者の務めだろう。幼い子は父母や兄弟姉妹、友達などの真似をして成長するものだ。個性を形成する段階に性別を、親から引き離して自分で決定させるとは恐ろしい、自由という名の洗脳ではないか。

極端な発想に至る背景には風土・民族・文化・宗教が密接に関わっており、強い抑圧のある地域ほど新しいイデオロギーは生まれやすく、根付きやすい環境が整えば周辺地域は簡単に侵食される。

日本では近世まで同性愛はタブー視されなかったようだし、祭りで宴会で男の女装は当たり前、BやTの居場所も寛容の中にあったのではないだろうか。江戸時代後期の『東海道中膝栗毛』弥次さん喜多さんなど明らかにゲイカップルなのだが、変人扱いするどころかありがちな微笑ましいキャラとして描かれる。残念ながら女性の性自認や嗜好の実態はよく分からないが、宗教的な理由で迫害対象になることはなかったと思われる。そもそも生活に余裕があり両性のバランスが欠けた環境においてこそ、生きて繁殖する以外のことが発生するというものだ。寛容の中に微妙なバランスを保っていたところへ、いま新たな思想が巣作っている。

極端なLGBT擁護によって民主主義が悪用されている事態を、もはや対岸の火事と笑っていられなくなった。(スコットランドではレイプ犯が裁判中、自己申告でトランス女性になり女性刑務所に収監された事例がある。)せめて教育現場だけでもインクルーシブ教育に侵略されないようお願いしたい。




どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...