2020年6月21日日曜日

人生は誰のもの

岸見一郎『愛とためらいの哲学』(2018 PHP新書)をまた開いている。
アドラー心理学の国内第一人者である著者の『嫌われる勇気』は135万部というミリオンセラーとなり、勧められて読んだがこれも何度も読むことになる本かと思う。要は必要な時に必要な箇所を読むべき本のジャンルなのかもしれない。

外出自粛でカプセルに閉じ込められ、宇宙空間に放り出されたような気分が続いている。部分的に日常は戻ってきているが、一度分断された繋がりはもう元に戻らないような気もする。ことわざとか慣用句で、うまい例えが見つからない。強いて言えば咫尺天涯というのかな、ものすごく近いのにものすごく遠い、取り残された感。

神経が過敏になり感度が上がりすぎているのだ。本書によれば、そんな自然発生的な要因を言い訳にして何でもありにしてしまうのは良くないという。多くの行動は衝動や本能によるものではなく、愛もまた然り、怒りのような感情すら自然的なものではないと。制御不能と思っていた感情は、実は自分の決心一つなのだ。

もしも衝動を抑え行動を制御することができれば、人生はもっと自由に意のままになるだろう。制御不能で破壊的になる前に、少し冷静になったら自分の求める方向が見えてくるだろうか。

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2020年6月13日土曜日

慈母観音伝説

大正生まれの祖母は晩年、市街の北外れにあるサ高住に移った。年金で足りない分は父が出してあげて、それも祖母はご自慢であった。入居した頃のホームは自由な経営方針でイベントも盛んだったから賑やかな性格にぴったりだった。気に入った介護のお兄さんにこっそりチップを渡したり、高いフルーツを注文したり、食堂に行く時の服装にこだわって2人の娘(私からみて叔母と伯母)を呆れさせたり。

これまでだってお金持ちだったことは嫁入り前の数年しかないのに、ずっといいとこの奥様風で通す徹底ぶりだったとか。むしろ奥様風なのが却って嫌味がないというか、生来のコミカルさもあって愉快な人だった。

後で聞いた話だが、そんな祖母が94歳で亡くなる半年くらい前、ホームでセクハラ事件が起きた。問題になったのは介護の青年で、ある女性入居者から入浴介護中に意図的に身体を触られて嫌だという被害報告を受け、祖母の入浴もその青年の担当ということでホーム側から謝罪があった。母が見舞いに行って「お義母さん、かなんかったですねぇ」と労うと、祖母は笑って「どもあらしまへんえ。」とにこにこ嬉しそうに答えたという。

「おばあちゃん肌が白くてぽよぽよで鏡餅みたいなお腹だったから、思わずってこともあるんじゃない?」「家でお風呂入れた時、おっぱい可愛らしいわぁって褒めたらものすごく嬉しそうだったしね」さんざん母と笑った後、あれは件の青年への配慮に違いない、おばあちゃんはやっぱり偉いと締め括った。母曰く、あの青年は何度か見たが、何か屈折した感情があってもおかしくない暗さがあったそうだ。

夫婦の不仲や家庭内暴力、息子の精神疾患など苦労は多かったが、短歌や謡など趣味も欠かさなかった祖母。能楽関連の本もたくさん読んでいた。謡曲は古今東西の古典を引用しつつ老若男女貴賤都鄙の情感を詰め込んでおり、普段口にしにくいような恋慕や執着も多く題材にある。

祖母もまた文学の中に人生を投影し、味わい深く生きたのだ。だからあの青年の暗い部分も優しさで包み込むことができたんじゃないかと、長生きの意味を見せられたような気がした。本人に真相を聞いたとしても、おまんを頬張りながら「そんなことうち知りまへんえ。」なんだろうけど。

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2020年6月8日月曜日

パスティーシュ?それって美味しいの?

中島京子のデビュー作「FUTON」を読んだ。下敷きになっているのは文学史では重要らしいのに読む人の少ない、田山花袋「蒲団」。この主人公の妻の視点で書き直す作中作がストーリー展開の中に織り交ぜられているのが興味深く手に取った。舞台はアメリカの地方都市と、東京の外国人と不良だらけになった下町。全体のストーリーもまた「蒲団」の師弟関係と同様、センセイと跳ねっ返り娘の組み合わせという二重構造になっていて、そこへ個性的な脇役が絡んでくるのだが、結局センセイは女たちの話を聞いてやる存在なのである。

長く女性誌の編集に携わったという作者の軽快な筆致は、ぐいぐい読み手を引き込んでいくし、ひたすら明るく滑稽な性描写はフランス文学研究の家庭で育まれたであろうエスプリに満ちている。

「FUTON」のような先行作品の主題やスタイルを模倣・借用・混成などして作った作品のことをパスティーシュと呼ぶらしい。この言葉は、清水義範の『上野介の忠臣蔵』のあとがきで知り、真剣にふざける作風なるものがあることを妙に感心したものだ。

パスティーシュ、と聞いたらパティシエのつくるシュークリームみたいなのを連想するが、食べ物で例えるなら賞味期限を過ぎ魅惑的な発酵臭を放つヤギ乳のチーズだろうか。

偽作、贋作でありながら、オリジナル作品を別個の思想的脈絡の中で引用するパロディは和歌の世界では「本歌取り」として日本では平安時代からごく日常的に行われている。源氏物語でも古歌の引用や借用が多く見られる。万葉集をはじめとして勅撰和歌集に上がるような人気の歌を一部使うのが、当時からお洒落と考えられていた。

学生の頃、第二外国語で仏語をとった折、リーダーの授業で「その後のロビンソンクルーソー」という短編小説を読むことになった。仏語は高校生の時、ベルギーから来た修道女の先生による初歩レッスンを受けていた。そのチャーミングな口元から発せられる「r」(ae: h)の発音を真似たくて、そこだけ鏡の前で練習していた馬鹿な女子高生の私。

そんなノリで選んだ仏語であったが、授業はいきなり期待を削がれてしまう。先生は50代後半であったろうか、顔色は悪く背中を丸め不潔っぽい髪を掻き上げながら本を開く。こちらもどうせつまらないだろうと期待せずロビンソンに向かう。一文一文苦しみながら読むのだが、授業を重ねるとおぼろげながら全貌が見えてくる。

このロビンソンは南の島に同じく漂着した黒人奴隷フライデーと英国に帰還する。待っていた妻は喜び友人は歓迎してくれたが、ロビンソンは本国の暮らしになぜか物足りなさを感じるのだ。「無人島にいた時はもっと毎日が生命力に満ちていた。」クヨクヨしてばかりのロビンソンに妻は愛想を尽かす。それにしても何故先生はこの皮肉に満ちた小説を選んだのだろう。

ある週から休講が続き、3回目になった時、先生がくも膜下出血で入院されそのまま還らぬ人となったことを聞いた。顔色が優れないのは本当に体調がお悪かったのだ。半分ページを残されたテキストは結末を知るまでは、と辞書を引きながらどうにか読み終えた。その後ロビンソンがどうなったかと言うと、妻がフライデーと駆け落ちし、彼はこれ以上のない孤独に包まれるところで話はおしまいに。

以来、パスティーシュにはふわふわ甘い砂糖菓子とピエロの涙が似合うと思っている。

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どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...