2021年8月29日日曜日

むなしさを満たす空気

 『空気人形』(2009年アスミック・エース 監督:是枝裕和)を観る。人間関係に疲れた男の部屋にある型落ちのラブドール、名前は「希望=のぞみ」。ある朝なぜか「心」を持ってしまい、男が出勤すると外の世界に歩き出す。レンタルビデオ店でバイトしたり恋をしたり、言葉を覚えてだんだん人間らしくなっていく一方で、代用品でしか存在できない自分に苦しさを覚える。そして出会う人はみな心に虚しさを抱えて、人を愛し共感し繋がることから遠ざかっている。ある日持ち主の男は新しいラブドールを買ってくる。心を持った人形を見て男は「できたら人形に戻ってくれへんかな?人間は面倒くさいんや。」と。ビデオ店の青年(井浦新)は人形に空気を抜かせてと求めてくる。

人形でないとダメなんだ、そう思われた時人形は心を持ってしまうのだろうか。身体は空っぽのままなのに、空っぽだから必要とされることも気付かないで。もう10年以上も前の是枝作品だから最近のものより刺激的かもしれないが、さまざまな隔たりを感じる今にこそ素直な気持ちで観て欲しい。命と心の居場所について、人間が人間らしくあるとはどういうことなのか考えてみたい。コロナ禍の今は程度の差はあれ誰もが人との関わりを薄くせざるを得ない状況だから、心に空洞を抱えているような感覚はじんわり沁みる。

人形は自分を作ってくれたラブドール工房の男に「生んでくれてありがとう」と言って、心を持ったことは後悔しなかった。役目を終えて廃棄されることは哀しいばかりではなく、その点では人もモノも大きくは違わないのかもしれない。できれば空気以外のもので満たされたいけれど。



2021年8月23日月曜日

算数は好きですか

 「300円を持ってコンビニに行き税込1個170円のパンをひとつ買いました。お釣りはいくらでしょう?」「え?130円よね」と答えた私は理系アタマなのだとか。「100円玉3枚あるなら200円出すでしょ。お釣りは30円。」「お釣りは出ない。100円玉の他に50円も10円玉もあるし。」と言う人は文系アタマ。要は素直に数値だけ考えるか、現実に即して物事を考えるか、思考回路の違いを言ったものである。どちらかというと文系至上主義的な気がしないでも無く、理系分野も苦手な私は良く言えば素直、即ちボーッと生きてるということになる。

以前はキャッシュレス決済が普及すると暗算ができなくなるといわれた。実際300コイン残っていて170コインのパンをスマホ決済で買ったら残りは130コインなのだ。ポイント2倍デーだからお買い上げ100円につき通常1ポイントのところ今日は2ポイントつくな、みたいな計算をわざわざする人があるだろうか。ポイント2倍デーの売り上げが付与ポイント額を差し引いてどのくらい上回るかは、きっとレジで自動的に計算されてコンビニ本部に送信されるだろう。

お釣りの計算をしなくなったからといって知能レベルが下がるとは思わない。ただ目に見えないからくりを見破るのが難しくなっていて、なぜそういうしくみになっているか考える習慣をつけた方が良さそうだ。複雑になったといっても四則計算が算数になった程度なのだから、つくづく義務教育って大事だなぁと思うこの頃。

2021年8月21日土曜日

Long Goodby

 『長いお別れ』(2019年アスミック・エース 原作:中島京子)を観る。認知症が徐々に進行する父を中心に、妻と姉妹の見守り・介護7年間を描く。寡黙で不器用だが優しい素直な一面もあってか家族に愛され、家族の意識が常に「お父さん」中心にある。その辺りが少し現実味に欠けるというか、もちろんそういうご家庭もあるだろうけど、娘の仕事や家庭に配慮なく呼びつける母親(松原智恵子)とそれに疑いもなく従う娘たちに違和感を感じた。妻が夫を介護するのを当然とは言わないが、お互いに扶養義務がある以上責任はあると思う。娘の姉の方(竹内結子)は米国在住で夫婦仲は黄色信号かつ息子は不登校、妹(蒼井優)は不毛な恋愛に振り回され仕事も上手くいっていない状況だ。「お父さん」に7年もしばりつける母親の考え方には共感できないのだが、私が薄情なんだろうか。

その一方で、山崎努演じる「お父さん」はどんどん認知症が進行し、夫でも父でもなくなっていく。いつか憧れたかもしれない、責任とか役割から解放された状態なのだが、人は自由になって幸せなんだろうか。穏やかな人はボケても穏やかに、というのは義母や実家の父の例を見てもそう思う。ただし初めからそうなのではなく、不可解な行動と排泄の失敗に家族はパニックを起こす。万引きなどやられたら、優しい気持ちなど吹っ飛んでしまう。記憶があやふやになるとともに性格にも特徴がなくなり、肉親がまるで知らない老人になってしまうのは、なかなか受け入れ難い。実際、認知症でなくても老化は即ち個性を失うことでもあり、この世からゆっくり退いていく「長いお別れ」なのだ。

若い頃はただ死は恐ろしく、もっと生きたかったと苦しみながら消えていくのだと思っていた。ところが中高年になると不思議に恐怖は薄れ、次第に「彼岸」が懐かしい人のいる場所へ変わっていった。しかも超高齢や認知症の人は病気でもあまり痛みを感じないようで、周囲としてはそれが救いになる。どんな死に様もその人の生き様なのだが、私の時は長引くことが無いようにと願う。




2021年8月16日月曜日

プレミアムで行こう

 対コロナ地元経済対策として今年もプレミアム付商品券なるものを地方自治体が販売、希望者の中から抽選で当たったらしいので2冊購入した。1冊1万円につき3千円のお食事券がついてくるのだが、買い物や食事であっさり使い切った。正直のところ現金払いが少なくなった今はポイント還元の方が使い良かったし、精算の手間など少なからずお店の負担もあったのではと思う。

私の住んでいる町では抽選だったが、住民税非課税世帯のみ申請可能の市町村もあって使う時貧乏人だとアピールしているようで恥ずかしいからと購入をためらった人もいるらしい。商品券発行の意図を、経済活性か経済支援なのかはっきりさせた方が良い。後者であれば何にでも換えられる現金であるべきだ。

さてこのプレミアムは「付加価値」ひいては「おまけ」の意味で、商品券にプレミアがついて割増で売買される訳ではない。ついでにいうとPremierは「第一の」「最初の」「初日公演」でありサッカープレミアリーグのようにカタカナでもpremiamとは使い分けされている。

付加価値といえば茶道具が典型だろう。「千利休から古田織部、小堀遠州と伝わる大名物で今は藤田美術館の所蔵でございます」といった具合に所有者の箱書きが増えるごとに付加価値が高まっていく。返せば箱書きがなければただの工芸品に過ぎない。

小さな電線会社を興した祖父は、酒が弱く営業や接待ではことさらに知恵を絞らねばならなかった。もっとも若い頃勤めていた〇〇電工ではそんなワガママが通用するはずもなく、ネクタイを鉢巻にして裸でお盆踊りをやらされたそうだ。出自は田舎でも自分の会社ではそういう泥臭い営業はすまいと決めていたとかで、当時ではまだ高級だったホテルランチで商談したり、奥様やお嬢様宛に銀座和光からスカーフやドールハウスを届けさせたりした。陶芸が流行りだすと丹波や信楽の窯元へ足繁く通って新進気鋭の作家を探し、これはという壺や花入を取引先に持っていって大いに喜ばれたという。

高麗の飯茶碗でも利休の手にかかれば大名物になりうるように、知恵とセンスで付加価値は生まれ経済は回る。本当にプレミアムな商品券でなくても、手にとれば元気が出るような楽しいこと、何か考えないとなぁ。



ガチャガチャのカプセルトイにこんなものがあったなんて! 
ひとつ300円の大名物。 
注:現在販売されていません。

 


2021年8月15日日曜日

食べたい読みたい

 今朝の日曜版の山田詠美の連載『私のことだま漂流記』は良かった。いつものダラダラとした楽屋裏みたいな空気は相変わらずだが、表題通り一貫しているのは読む、書くという言葉へのこだわりである。どちらかというと質より量に重きを置くのか、酔っ払いのグダグダに似たけだるさに失望することも多い。ただ読むにも書くにもまずはボリュームが必要という考えが根底にあり、これが作風というならそれもアリだろうと思う。

多読と言えば今回も詠美サンが子供の頃お母さんの購読している婦人雑誌を愛読していた話から。付録のレシピ本の料理があまりに美味しそうで思わず写真をぺろっと舐めてしまったという。写真が良かったのもさることながら、その出来上がりの表現に強烈な食欲をそそられた少女は「文章は重要だ、と思った」のだ。

その婦人雑誌の記事には、料理のほかに裁縫や園芸さらに夜の夫婦生活指南まであって詠美サンはどれも隅々まで読んでいたのはもちろん、のちに男性誌の特集を見てもヘルマンヘッセ『車輪の下』の方がエロチックに思えたというオチもあり。冒頭で本能からくる欲望のひとつに読書欲があると言っているが、この人の場合あらゆる欲望が読書と創作に集結しているのだろう、散らかった楽屋裏で作家の本質を見たような気がした。




どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...