映画オッペンハイマー(C.ノーラン監督2023アメリカ)が話題なのでどうかなぁと思いながら、重いテーマを3時間も耐えられるかとためらっている。暗い映画館の大スクリーンで観ると内容に集中できるのはいいとしても、本編の前には必ず予告編があってやたら大きな音を鳴らすので、初夏など頭痛の起きやすい季節にはきついものがある。この作品は躁鬱気質の主人公が核兵器開発に携わる葛藤を描いているだけに、こちらまで心の不安定を誘発されそうで、たぶんそれは言い訳でどうもないのだけれど単純に一人で足を運ぶのが億劫である。
このノーラン監督がNHKのインタビューの中で、息子さんにこういう映画の企画があると話したら「僕らの世代では核兵器より気候変動の方が重要な問題なんだよ」と言われて衝撃だったと語っていた。アメリカのZ世代、だけでなく西側諸国の若者がそういう状態であることの危険性を感じながらこの映画を制作したという。確かに気候変動は人類共通の脅威であるし、生死に関わる大きな課題ではあるけれど、たとえ全人類が一丸となって環境問題に立ち向かったところで地震も火山も止めることはできない。太陽がほんの少し輝きを増したり勢いを弱めるだけで、地球上の生物は丸焦げにもカチカチの冷凍にもなるのだ。異常気象でコーヒー豆が不作なのも嘆かわしいが、原爆誕生から80年これまでにない緊張感で核戦争の一歩手前まで来ていることを今一度意識したい。どちらが喫緊の課題なのか、核兵器の扱いはこのままで良いのか。
世界には今も「原爆投下は戦争終結のために必要で正しかった」という意見がある。日本人としてそこはどうしても同意できないが、広島長崎の惨事を訴えることだけで核廃絶を求めるのは不十分に思う。廃絶運動の活動団体は核兵器放棄協定に国の代表がサインをしさえすれば世界平和が来るようなことを言うけれど、そこは決定的に何かが欠落していて論理の飛躍が生じている。人類史上戦争が無かったことはなく、外交の最終手段が武力行使=戦争であるなら、約束や取引の中で最終兵器を作ったり引っ込めたりして危うい時間稼ぎをするよりないのかもしれない。動画配信始まったらオッペンハイマー観ましょうか。