2022年10月28日金曜日

悲しみと向き合う

 映画『ドライブ・マイ・カー』を観る。原作の村上春樹も作品の中で準備・上演されるチェーホフの戯曲もまるで知らないので、かなり苦痛を伴った。喪失感と微かな希望が素晴らしいとか評されているが、残念ながら共感というものはなかった。自分の感情に向き合うことをしないで無理をして生きてしまう人には響くのかもしれない。重く、一方通行で調和に欠けた世界に生きる人も少なくないということだろうか。

男女の場合、始めは楽しいことに共通項が多いと滑り出しは良いが、実は長い結婚生活では悲しみの捉え方や向き合い方こそが重要で、そこに気付くのは相応の時間がかかる。もちろん悲しみを激しく表現する人もあれば、殻に閉じこもって封印する人もあるが、それだけでもない。どうしても違和感に折り合いがつけられない場合だってあるだろう。

最愛の子供を亡くした悲しみの底から這い上がり、今度は奔放に恋人を次々変え、時には自宅で逢瀬を重ねて夫を傷つけ、ある日くも膜下出血で急死する女。優しく魅力的にふるまっても、悲しみにあぐらをかいて自己中心的な世界に生きた。また夫も自分の行動で妻の幸福度や運命が変えられると思っていて、どんなに嘘をつかれてもまだ自分が悪い、妻が死んだのは自分のせいだと責め続けている。夫婦でも人の心の中を覗くのはいけないし、心のうちを理解してやれなかったと悔やむのは誤りだと私は思うのだけど。

やたらタバコを吸うのと無機質なセックス、韓国に比重がかかりすぎるところ、多言語演劇といい違和感だらけでそれが狙いなのかハルキストにでも聞かないと分からない。違和感といえば作者の趣味が反映されて赤のSAABは格好よかったし、映画の中でも存在感を放っていた。丁寧に扱えば応えてくれるという点で妻よりも誠実という意味かもしれないし、緑内障で運転が難しくなってもドライバーが来て補ってくれるように、人生は修復可能であって欲しい。

実生活の中で違和感、不調和は忙しい時間の中に忘れられてあまり立ち止まることはない。気にしないでいる方が日常は穏やかに進んでいく。文学は自分にもあったかもしれない別の人生を見せるから毒性に注意だ。全然楽しめなかったが、少なくとも問いかけるものを感じた。




どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...