2021年10月11日月曜日

そんな時代も

今日は久々に大学生の息子がキャンパスで授業があると朝早く出かけていった。入学式のないまま始まった学生生活、オンライン授業が主流となって対面授業が出来た日は数えるほどしかない。そういう時代だから仕方ないのだと、嫌というほど言われてきただろうし私もつい言ってしまう。

もう30年以上も前、初めての新入生歓迎コンパで連れて行かれたのは京都大原の民宿だった。大学でも飲み会が激しいと評判のサークルと後になって知るのだが、鍋の蓋にビール1本注いでイッキ!イッキ!をやっている横で課題をしている学生がいたり、倒れたり吐いたりがあっても次の日はちゃんと文化財見学したりする。それで何かが変わった訳ではないけれど騒がしい印象的な学生生活の始まりだった。

大原には中学校から遠足で来たことがあり、あいにくの雨だったけれど寂光院や三千院を見て回って漬物など買って帰った。国語の先生は「大原御幸」の舞台をしっかり見てこいと言ったけれど、箸が転がっても可笑しい年代にぞろぞろ連れ立って観光バスで行ったところで何を感じられよう。建礼門院?後白河法皇からしたら息子の嫁でしょ?キモ!あーぁ、嵐山のタレントショップとか清水寺とかの方が良かったなーてな具合である。

今は京都市営地下鉄が国際会館まで延びているから、そこからバスでも20分ほどで大原に着く。市街中心部から京都バスで行くしかなかった頃は、観光シーズンなど交通渋滞に巻き込まれたりして結構行きも帰りも時間がかかったものだ。それこそ歩くしかなかった時分は都から離れた静まりかえった山里であり、そのまま北へ向かう道は若狭街道となって滋賀県大津市の途中越や花折峠を経て福井県に至る。

大原の名物といえば茄子・胡瓜・茗荷などを紫蘇の葉と漬けたしば漬け。なんでも建礼門院徳子が好んで紫葉漬けと呼んだことからしば漬けと言われるようになったとか。小さい頃はあの茗荷がちょっと苦手だったけれど、祖母が出刃包丁で細かく刻んでくれたものは食べられた。京都の漬物なら「「千枚漬け」「すぐき」もあるが、しば漬けの赤紫と独特のクセは田舎なのに鄙びていない大原里の印象に重なって別格に思える。

時代や価値観の変わる節目に生きた人がいて、何を思い次に繋げていったか、今なら想像することもできそうに思う。後白河院は南都焼討ちで失われた奈良東大寺の再建に尽力し、大仏開眼には周囲の反対も聞かず正倉院から筆を持ち出して自ら目を入れたという。新しい時代の風は大原にも届いただろうか。
          【TVCM】JR西日本 2008年 盛秋「大原・三千院」そうだ 京都、行こう。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...