2020年11月23日月曜日

今年は何を観ようかな

めんどくさがりの私でもクリスマスにはツリーを飾って、子供たちに見つからないようにプレゼントをそっと置くみたいなことを10年くらいした。ある年からボク達もサンタクロースがどういう存在なのか分かってきた時点で、悪いなと思いながら卒業させてもらった。一応、私がサンタからプレゼントを用意するように頼まれたということにして。

その昔、通っていた学校はミッションスクールだったのでクリスマスのミサ(実際にはクリスマスはキリストのミサという意味だからおかしな表現である)が行われ、4階建ての校舎よりまだ高いヒマラヤ杉に色とりどりの電球が灯り、聖堂でキャロルを歌ったりした。

私は信者でも何でもないので卒業してしまえば日本のアニミズムに戻るだけなのだが、一応文化の一つとしてクリスマスには宗教的な事を一つ取り入れたいと思っている。ここ数年はキリスト教やクリスマスに関する映画をひとつみるというのをやっていて、昨年はウィレム=デフォー主演の『最後の誘惑』(1988 米)にした。この映画の中でキリストは普通に弱っちい一人の男であり、人として当たり前の幸せと神から与えられた使命との葛藤に苦しむ。

京都のこじんまりとしたミニシアターでこれを見た時、誰かを好きになって結婚して家庭を持ち子育てをする、そんなありふれた人生が死ぬほど愛おしい誘惑になり得ることが衝撃であった。数奇な人生を選び、多くの人を導き大きな事を成し遂げることができたなら、当然満足感と達成感を味わえるだろうと思っていただけに。

何かの目的のために「当たり前」の幸せが得られなかったのなら諦めもつくが、現実には両方得られる人がいる一方でどちらも得られなかった人が存在するものだ。そういうどうしようもない不条理に、キリスト自身がありふれた幸せも賞賛も得られなかったからこそ、腐らず生きていく一筋の光を示すのだろう。キリストを神格化するより、こうした物議を醸すような異端の解釈の方がしっくりくるのは、やはりアニミズム的発想が根っこにあるせいかもしれない。



どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...