2020年11月21日土曜日

手をつけない理由

息子が大学生になると、自然と自分が学生だった頃の記憶が蘇ってくる。冬、四回生の先輩たちの卒論の手伝いに行くのが恒例行事だった。凍えるようなプレハブの実習室は石油ストーブの周りだけが暖かく、すぐに手がかじかんだ。コピーを取ったり図面を切り抜いたりといった作業をするのは楽しく、休憩に缶コーヒーをもらったり一緒に夕飯を食べに行ったりした。

さて自分の卒業論文の研究テーマ選びとなった時、どうやって決めたかあまり記憶に残っていない。おそらく先生が講義の中で断片的に話されたことを拾って、その中から形になりそうなものを選んだのだろう。そして次第に当初のものとかけ離れてきたりするから、中間発表で講師の先生に、「調べてきたのは分かるけど、何が言いたいのかなあ」なんて言われてしまう。

そもそも先生の雑談からこぼれたテーマを拾っている段階で先が見えているのかもしれない。今思えば先生も、これは自分がやるには体裁が悪いし今ひとつだなと思って手をつけていなかったに違いない。もっと性格が悪ければ芳しくない成績をつけながら、自分の見立て通りやっぱりダメだったな、なんて意地悪く思っているかもしれない。

これが修士論文や博士論文になると、先生としても自分の分身やライバル浮上に心穏やかでない時もあるだろう。若い人は生活もかかっているから必死だし、先生もあわよくば自分の手柄にできないかヒリヒリハラハラの世界へようこそである。わざと倫理観に欠いた実験をさせたり責任を取らせたりするのは小説の中だけだろうか。

ほとんどその後に役立つことはなかったけれど、もし高校を卒業して地元で暮らしていたら見ることもない景色だった。そういう意味では進学させてもらって親に感謝!である。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...