もう25年も同じところに住んでいるうちにライフスタイルも変わり、使わなくなったものたちが出番もなくじっと停滞している。両方の実家から流れ着いた捨てられないものたちが、少しずつ堆積して埃を溜めている。さらに25年のうちに便利だ必要だと思って買ってしまったものの多いこと。調理器具、食器、工具、園芸用品、家電、寝具、服、靴、傘、置物。もう少し後のことを考えてじっくり選べなかったのかと、なぜ条件反射的に欲しいと思ったのか、決して気に入っているわけでもないのにずっとそこにある。気に入ったものほど早く傷んだり壊れて都度買い替えられているのに、衝動買いしたものは使わないから壊れない破れない。自らの浅はかさを恥じつつ捨てる罪悪感、積み上がるゴミ袋。
モノが無くて困った時代の人は余裕ができると大量に買い貯めた。モノで溢れかえった親の家の処分をしてきた世代には、せめて次世代に引き継ぐまいと身体が動くうちに片付けをする人も多いという。片付け、断捨離などと検索すると驚くべき数の動画が上がってくるということは、いかに不要なものを捨てスッキリ暮らすことが世の中の関心事であるか、裏を返せば不要なもので生活が荒らされモノに溺れていることの現れなのだ。
ひとたび棚のものを全部ぶちまけると、大量の埃の始末に続いて要不要の分別に労を要し、さらに残すべきものの収納を考える。棚一つ、たんす1棹処分するのがこんなに大変なんてやる前は考えもしなかった。おそらくこのペースでいけば何ヶ月もかかってしまうだろう。
前回、骨董品の断捨離についてボヤいたが今は完全に吹っ切れて、むしろ具体的な値段がつかなくて良かったと思っている。二束三文で古道具屋に売っていたら、またこれはこれで陶芸作家さんとそれを気に入って買った祖父の両方に申し訳ない気持ちが残って面倒だった。いいものも悪いものの、持っているのに使えないのは不幸極まりない。飾る場所もなければ愛でる教養もない。
思い出グッズや写真、人から貰ったものなどは相当に始末に悪く、いっそ古くなれば勝手に朽ちて土に還ってくれれば良いのにと思う。とは言っても確かに前に整理した時よりは減っていて、あの時どうしても処分できなかった思い出が蘇る。思い出の思い出はひたる心地よさなど毛頭無く、案外あっさり捨てられたりするので、執着が薄れるまで残しておいて良かったのかもしれない。やはり段階的に捨てる時間的余裕があると葛藤やダメージが少ないらしい。役目を終えたものと認め、別れ、離れるには大変なパワーが必要だし、いつも出力100%というわけにはいかない。モノに向き合うことで自分に向き合わなければならないのが、これまで避けてきた最大の理由かもしれない。