中島京子のデビュー作「FUTON」を読んだ。下敷きになっているのは文学史では重要らしいのに読む人の少ない、田山花袋「蒲団」。この主人公の妻の視点で書き直す作中作がストーリー展開の中に織り交ぜられているのが興味深く手に取った。舞台はアメリカの地方都市と、東京の外国人と不良だらけになった下町。全体のストーリーもまた「蒲団」の師弟関係と同様、センセイと跳ねっ返り娘の組み合わせという二重構造になっていて、そこへ個性的な脇役が絡んでくるのだが、結局センセイは女たちの話を聞いてやる存在なのである。
長く女性誌の編集に携わったという作者の軽快な筆致は、ぐいぐい読み手を引き込んでいくし、ひたすら明るく滑稽な性描写はフランス文学研究の家庭で育まれたであろうエスプリに満ちている。
「FUTON」のような先行作品の主題やスタイルを模倣・借用・混成などして作った作品のことをパスティーシュと呼ぶらしい。この言葉は、清水義範の『上野介の忠臣蔵』のあとがきで知り、真剣にふざける作風なるものがあることを妙に感心したものだ。
パスティーシュ、と聞いたらパティシエのつくるシュークリームみたいなのを連想するが、食べ物で例えるなら賞味期限を過ぎ魅惑的な発酵臭を放つヤギ乳のチーズだろうか。
偽作、贋作でありながら、オリジナル作品を別個の思想的脈絡の中で引用するパロディは和歌の世界では「本歌取り」として日本では平安時代からごく日常的に行われている。源氏物語でも古歌の引用や借用が多く見られる。万葉集をはじめとして勅撰和歌集に上がるような人気の歌を一部使うのが、当時からお洒落と考えられていた。
学生の頃、第二外国語で仏語をとった折、リーダーの授業で「その後のロビンソンクルーソー」という短編小説を読むことになった。仏語は高校生の時、ベルギーから来た修道女の先生による初歩レッスンを受けていた。そのチャーミングな口元から発せられる「r」(ae: h)の発音を真似たくて、そこだけ鏡の前で練習していた馬鹿な女子高生の私。
そんなノリで選んだ仏語であったが、授業はいきなり期待を削がれてしまう。先生は50代後半であったろうか、顔色は悪く背中を丸め不潔っぽい髪を掻き上げながら本を開く。こちらもどうせつまらないだろうと期待せずロビンソンに向かう。一文一文苦しみながら読むのだが、授業を重ねるとおぼろげながら全貌が見えてくる。
このロビンソンは南の島に同じく漂着した黒人奴隷フライデーと英国に帰還する。待っていた妻は喜び友人は歓迎してくれたが、ロビンソンは本国の暮らしになぜか物足りなさを感じるのだ。「無人島にいた時はもっと毎日が生命力に満ちていた。」クヨクヨしてばかりのロビンソンに妻は愛想を尽かす。それにしても何故先生はこの皮肉に満ちた小説を選んだのだろう。
ある週から休講が続き、3回目になった時、先生がくも膜下出血で入院されそのまま還らぬ人となったことを聞いた。顔色が優れないのは本当に体調がお悪かったのだ。半分ページを残されたテキストは結末を知るまでは、と辞書を引きながらどうにか読み終えた。その後ロビンソンがどうなったかと言うと、妻がフライデーと駆け落ちし、彼はこれ以上のない孤独に包まれるところで話はおしまいに。
以来、パスティーシュにはふわふわ甘い砂糖菓子とピエロの涙が似合うと思っている。