2021年6月30日水曜日

分人の集合体

 ある書評が気になって、平野啓一郎『本心』を読んだ。本屋に行くか1日待てば通販で届くけれど、近未来のSFには電子書籍が似合うだろうと、kindle版にしてスマホにダウンロードした。著者の作品は読んだことがなかったので、一貫してこだわり続けているという「分人主義」についても初めてだった。曰く「一人の人間、つまり「個人」は、実はもっと小さな単位の「分人」の集合体でできている。」

こんなことを言った人がある。「女性っていくつも顔を持ってるよね。娘、母、妻、嫁。もちろん一人の女性としての顔も。」ここでいう「顔」は人格というより役割というべきなのだろうが、役割を演じているうちにそれぞれが個性を持ち始めて、総合的に個人を形成していく。

ジキルとハイドのような多重人格がどのようにできるは知らない。ただ何か強烈に自分を否定した時に、命の危険を感じて自らの精神を守るために真逆の人格を形成することは想像できる。そういう特殊な場合を除いて、誰もがうすうすは感じている「自分の中の別の人」について私もいつか向き合ってみたいと思う。

若い子達のグループやTVタレントなどで、似た性格や見た目の人が複数いると「キャラが被る」と嫌われる。男児が好んでみる「スーパー戦隊もの」ではアカレンジャーは性格は明るく無鉄砲、アオレンジャーはクールで2枚目、キレンジャーはぽっちゃり体型でお調子者など「キャラが立っ」ている。つまり同じ集団ではそのキャラクターが固定されるとずっとそのままでいる必要があり、他に似たキャラが入ってこられると困るのだ。本当の自分はこうじゃないのになぁと思いながら演じている場合も少なからずあるだろう。

著者は「本当の自分」の存在には否定的であるらしく、もっといっぱい自分があって良いという考えだ。クソ真面目で勤勉な私と、何かとだらしない私の、どちらもが私を形成している要素ということか。馬鹿正直で頑固な女と、ずる賢くて日和見主義な女がひとつの身体でうまくやっていけるんだろうか。複数の分人が前に出たり引っ込んだりして、何ともややこしいことである。

『本心』では主人公が母親の「他者性」に違和感を感じたりする場面がある。時系列にしてみると、同性パートナーと暮らす、精子提供で妊娠、作家の愛人として8年、旅館の下働きの仕事で若い娘と親しくなる、晩年自死を望む、となるだろうか。私はこの女性の人生には結構一貫性があると思うし、分人というほどの変化を感じない。思い通りにならない時代に抵抗して、最期も思い通りにならなかったけれど、やってみた感のある生き方として誇れるのではないだろうか。しかし息子の立場になれば、こんなのお母さんじゃないと否定するのかもしれない。



どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...