宇野千代『おはん』を読む。背景も話される言葉もフィクションというが、関西弁に慣れ親しんだ者としては関西に生まれて幸運と思える作品だ。何より語り手のどうしようもないダメ男には上方言葉がよく似合う。そしてこのダメっぷりに惹き込まれていくのは湿度たっぷりの言葉の力と言える。男の容姿についてはほとんど記述がないが、何でこんな普通の人がそんなにモテるのだと誰もが思うほどありふれた姿を想像するのは私だけだろうか。
浮気の末に捨てた女房が、年増になって魅力的に見える。二人の女の間で優柔不断に揺れ動く気持ちも、急に芽生えた子供への関心も、結局は自己愛に帰する。おはんを抱けばおかよを思い、おかよを抱けばおはんが気になる有様は、どうにも最低、本当にこんな男がいたらブッ飛ばしてやりたい。何故にここまで集中できないのかとイライラするのだが、作者あとがきを読むとある程度納得できる。宇野千代は登場の3人とも自分がモデルだと言っていて、実際のところ男の心中は作者のものなのだ。昔、ジュディ=オングも『魅せられて』で♬好きな男の腕の中でも ちがう男の夢を見る♪と歌っていた。
恋愛経験が一つ一つが独立して並ぶタイプと、時間の経過とともに蓄積するタイプがあるとすれば前者は動的、後者は静的といえる。いつか男にとって過去に付き合った女は山に例えられるという話を読んだことがある。険しい山に挑んで征服したらその満足感で完結しトロフィー化するため、しばしば自慢のネタとして語られる。3000m級が8000m級に脚色されることもあるとかないとか。トロフィーは次なる挑戦の大いなる自信ともなろう。
トロフィー型に比べ蓄積型は完結することがない。過去の人の要素を取り出して共通点を洗い出したりと常に反芻しており、具体的に誰と比べている訳ではなくても目の前の人に集中できない。『おはん』の語り手の男もこのタイプだとすれば実に冷酷で、罪深い。何がイライラするかと言えば、そこには相手への思いやりも愛の一片もなく、読み手はただ本能と執着の懺悔を聞かされているからだ。大切な子供の死までもが自己愛の前に悲惨さを失って、一層のモヤモヤを残している。子供の亡骸の前で、男に対し怒り狂うおはんの母と弟だけがまともな人間として描かれ、読み手を少しだけ正気に戻してくれる。