大正末期に生まれた祖母の戸籍を辿ってみると、一人の女性の一生が浮かび上がってきた。四国のある町に生まれ、10歳くらいの時父親を病気で亡くしている。兄弟姉と共に母親の戸籍に入ってその実家である山口県で過ごし、女学校時代に戦争が激しくなってくる。戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集『きけわだつみのこえ』にちなみ、祖母の同世代の人を「わだつみ世代」と呼ぶのだそうだ。終戦を迎え姉夫婦を頼って大阪に出て就職。姉が病気で亡くなると遺された子供たちの世話のため退職。のちに義兄に嫁ぎ、戸籍改製後入籍している。
義兄=私の祖父は昭和30年ごろ会社で秘書をしていた女性の積極的なアプローチに再婚の意思を固めていたようだったが、最終的に破談となったそうだ。思うに二人の間に子供を持たないことを結婚の条件として出したのではないか。祖母も長い内縁の妻時代に身籠った子供を中絶、産むことを諦めている。戦後の経済的に厳しい時期でもあったが辛い過去である。
遺された子である私の母は青春期、激しい夫婦喧嘩の後片付けを何度もしたそうだ。また夫婦の行為に遭遇した時、亡くなった妻の名を呼ぶ声を聞いたという。祖母の精神が一部壊れてしまったのは、一体誰の責任なんだろうか。それでも自暴自棄にならずに、姉の代わりに一家を見守って大正・昭和・平成・令和と生きた。
祖母は50歳から一切の家事をしなくなったので、母が週二回電車で2時間かけて通って洗濯や買い物をしていた。食べ過ぎで動けないほど太り、糖尿症になっても病院へ一人で行けないし、徒歩5分ほどの銀行にも行けず委任状を書いて母が手続きした。百貨店の通信販売でやたらに物を買うので広いマンションも家具や衣類でいっぱいになってしまった。70代になってサービス付き高齢者住宅になんとか入ってもらい、そこから10年は週1回の訪問が続いた。「実母だったらここまで出来なかっただろうし、やりきったから悔いはない」と老いた母は言った。