2021年7月29日木曜日

わだつみ世代逝く

 大正末期に生まれた祖母の戸籍を辿ってみると、一人の女性の一生が浮かび上がってきた。四国のある町に生まれ、10歳くらいの時父親を病気で亡くしている。兄弟姉と共に母親の戸籍に入ってその実家である山口県で過ごし、女学校時代に戦争が激しくなってくる。戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集『きけわだつみのこえ』にちなみ、祖母の同世代の人を「わだつみ世代」と呼ぶのだそうだ。終戦を迎え姉夫婦を頼って大阪に出て就職。姉が病気で亡くなると遺された子供たちの世話のため退職。のちに義兄に嫁ぎ、戸籍改製後入籍している。

義兄=私の祖父は昭和30年ごろ会社で秘書をしていた女性の積極的なアプローチに再婚の意思を固めていたようだったが、最終的に破談となったそうだ。思うに二人の間に子供を持たないことを結婚の条件として出したのではないか。祖母も長い内縁の妻時代に身籠った子供を中絶、産むことを諦めている。戦後の経済的に厳しい時期でもあったが辛い過去である。

遺された子である私の母は青春期、激しい夫婦喧嘩の後片付けを何度もしたそうだ。また夫婦の行為に遭遇した時、亡くなった妻の名を呼ぶ声を聞いたという。祖母の精神が一部壊れてしまったのは、一体誰の責任なんだろうか。それでも自暴自棄にならずに、姉の代わりに一家を見守って大正・昭和・平成・令和と生きた。

祖母は50歳から一切の家事をしなくなったので、母が週二回電車で2時間かけて通って洗濯や買い物をしていた。食べ過ぎで動けないほど太り、糖尿症になっても病院へ一人で行けないし、徒歩5分ほどの銀行にも行けず委任状を書いて母が手続きした。百貨店の通信販売でやたらに物を買うので広いマンションも家具や衣類でいっぱいになってしまった。70代になってサービス付き高齢者住宅になんとか入ってもらい、そこから10年は週1回の訪問が続いた。「実母だったらここまで出来なかっただろうし、やりきったから悔いはない」と老いた母は言った。



2021年7月27日火曜日

ダメンズは関西人

 宇野千代『おはん』を読む。背景も話される言葉もフィクションというが、関西弁に慣れ親しんだ者としては関西に生まれて幸運と思える作品だ。何より語り手のどうしようもないダメ男には上方言葉がよく似合う。そしてこのダメっぷりに惹き込まれていくのは湿度たっぷりの言葉の力と言える。男の容姿についてはほとんど記述がないが、何でこんな普通の人がそんなにモテるのだと誰もが思うほどありふれた姿を想像するのは私だけだろうか。

浮気の末に捨てた女房が、年増になって魅力的に見える。二人の女の間で優柔不断に揺れ動く気持ちも、急に芽生えた子供への関心も、結局は自己愛に帰する。おはんを抱けばおかよを思い、おかよを抱けばおはんが気になる有様は、どうにも最低、本当にこんな男がいたらブッ飛ばしてやりたい。何故にここまで集中できないのかとイライラするのだが、作者あとがきを読むとある程度納得できる。宇野千代は登場の3人とも自分がモデルだと言っていて、実際のところ男の心中は作者のものなのだ。昔、ジュディ=オングも『魅せられて』で♬好きな男の腕の中でも ちがう男の夢を見る♪と歌っていた。

恋愛経験が一つ一つが独立して並ぶタイプと、時間の経過とともに蓄積するタイプがあるとすれば前者は動的、後者は静的といえる。いつか男にとって過去に付き合った女は山に例えられるという話を読んだことがある。険しい山に挑んで征服したらその満足感で完結しトロフィー化するため、しばしば自慢のネタとして語られる。3000m級が8000m級に脚色されることもあるとかないとか。トロフィーは次なる挑戦の大いなる自信ともなろう。

トロフィー型に比べ蓄積型は完結することがない。過去の人の要素を取り出して共通点を洗い出したりと常に反芻しており、具体的に誰と比べている訳ではなくても目の前の人に集中できない。『おはん』の語り手の男もこのタイプだとすれば実に冷酷で、罪深い。何がイライラするかと言えば、そこには相手への思いやりも愛の一片もなく、読み手はただ本能と執着の懺悔を聞かされているからだ。大切な子供の死までもが自己愛の前に悲惨さを失って、一層のモヤモヤを残している。子供の亡骸の前で、男に対し怒り狂うおはんの母と弟だけがまともな人間として描かれ、読み手を少しだけ正気に戻してくれる。



ぼくの好きなおじさん

 やっと猛暑から解放されたと思ったら10月も終わってしまった。慌ただしく自民党総裁選、衆院選が行われ、さらには首相指名選挙と政治の空白期間に不安しかない。不安というなれば今から50余年前、私が赤ん坊だった頃の日本は沖縄が返還された一方で、ベトナムへ向かう米軍の出撃基地だった。母が...