2022年2月19日土曜日

蘇る記憶・新しい出会い

息子の進学先がようやく決まり、入学手続きを進めている段階である。受験勉強も終わって部屋の整理を強制的に始めさせたら大量の資料やらプリント類が出てきて、古紙回収に出すためにいくつも束を作った。思ったほどノートが出てこなかったのは書く字が小さいせいなのか、今時の子はあまりノートを使わないのか、ちょっと分からない。

教科書については一気に捨ててしまわずに少しずつ流し読みして処分していくつもりだ。中には本当にずっと残しておきたいような楽しい資料集もあっていい娯楽になる。3年前教科書販売の日も息子と高校へ行って制服の採寸などしたけれど、もう10年くらい前のような気もする。逆に小学校入学の方が鮮明に覚えており、しかしそれが長男だったか次男のものであったか私の記憶は常にいい加減なのである。

子供の成長と共に自分の記憶が呼び覚まされて、封印していた思い出が蘇ることがある。早春の冷たい空気と明るい日差しや土の匂いが脳を刺激するのだろうか、すっかり忘れていたほんの小さなことまで。

学生の頃、親しくしていた友人の研究発表のレジュメを見せてもらったことがあった。美術史が専門だけに写真を多く使った図録が付けてあり、そこには古い特徴ある紋様の織物がいくつか並んでいた。円のなかにまた小さな円が紋様を取り囲むように連なって縁取る(連珠円紋)その中心には目玉が大きく髭の濃い男が羽の生えた馬に乗って弓を引いており、至近距離に飛びかかるライオンの姿がある。その図案が左右反転して対になり、さらに左右入れ替えて上下合わせて4パターンが円の中に収まっている図案だ。ササン朝ペルシャ文化の影響を強く受けて唐代の中国で制作されたものという。

これが「シシカリモンキン」だと教えてもらったがどんな字を書くのか咄嗟に思いつかず、「獅子狩文錦」と知ったのはしばらく経って法隆寺所蔵の文物の図録を見た時だった。友人はのちに染織工芸史の研究者となったが、その原点となった動機は何だったのだろう。宝塚歌劇が好きで英国趣味で恋愛はしないと言った彼女が、一生を懸けるほど好きになった染め織物とは。

国宝・四騎獅子狩文錦は法隆寺の夢殿に救世観音と共に納められていた。著名な帯織物商の初代・龍村平蔵による復元でその制作過程などの研究が進んだ。染織家の吉岡幸雄の工房で職人が3人がかりで1日1cm織るのがやっとであったというから、古代の美へのこだわりと探究心にただ驚くばかりである。(初代の伝記的小説には宮尾登美子の『錦』がある)

さらに西本願寺の大谷探検隊がトルファンから持ち帰ったミイラ顔布の裂(花樹対鹿錦)が、この四騎獅子狩文錦と同じ工房で制作されたと考えられており、二代目龍村平蔵が復元を試みた。自著『錦とボロの話』(1967学生社) 出版から二年後にNHKの特番でドキュメンタリー「幻の錦」制作、演出家が文章にまとめたものが中学の教科書(教育出版「中学国語三」1975)に掲載される。

友人は特番を見たりこの教科書を使った年代ではないが、その後しばらく続いたシルクロード熱の時代に何らかの出会いがあって研究を志したのかもと勝手に想像してみる。あのとんでもなく贅沢な錦は、世界の文化と富を集めて燦然と輝いていた隋唐時代の中国を凝縮したような存在であり、その中で最高級のものが日本に残っているというだけで感動ものだ。

老いても生きていればその先にも出会いがあり、またその契機が自分の記憶の中にもあるすれば、それはそれで楽しみだと思えてくる。




どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...