2022年2月9日水曜日

素直な気持ち、不本意な選択

 山田洋次監督82作目の『小さいおうち』(2014年)を観る。いい映画を観たなとすっかり満足したので、気に入ったけれどもう原作は読まなくていいなと思った。原作の小説と映画が全く違ったものになっていて、小説のファンが違和感を感じるなんてことはよくあるから。もっとも今回は映画を先に見ているから逆になる。それに原作が『futon』や『長いお別れ』の中島京子と気づいて、記憶に湯気が立っているうちに電子書籍『小さいおうち』(2010年 文藝春秋 )をスマホに入れて読むことにした。(未読の方にはネタバレ容赦願います)

小説はやはり映画以上のエピソードを含んでいたし、戦前戦中の取材に多くの力を注いだことが想像できた。もちろん誤った記憶や創作の部分も含んでいるだろうが、80年前の出来事が今現在起こったとしてもあまり変わらない感覚なんだろう、世界は人は何も変わってなかったと感じた。疫病や災害から資源の奪い合いが始まり戦争が起きるという、大昔から常識だったことを私たちはこの2年間でようやく思い出して焦っている。

映画では人の惹かれ合う、あるいは触れ合いたい気持ちを控え目に表現している。盛りだくさんな原作に比べ、男性目線で分かりやすく単純で、多くの人に好まれる作品に仕上がっていると思う。小説ではタキちゃんが女中としてのプロ意識の中で奥様と板倉氏の関係をどう扱うかについて悩み、その根底には奥様へ憧れ以上の恋愛感情が存在する。また再婚相手の今の旦那様は女性に興味がないタイプとか、女学校時代の友人も性的マイノリティだったり単純ではない。

そうだ、誰だってグレーな部分を持ちあわせている。何が正しいとか間違っているとか、公に主張したり、逆に第三者に糾弾されるようなことのない寛容な社会が、かつてあったということだろうか。按摩をしたりその手を温かいと感じたりといったことも、肌が触れ合うという点では延長線上に性があることを否定できない。気が合って一緒に住みたいと思う人が同性であればどうだろう。心を通わせて語り合いたい人が既に結婚していたら。やはり秩序のため、どこまでが性的でどこまでがノンセクシュアルなのか社会通念に基づいた倫理観で決めなければならないのだろうか。

グレーだから全部いいとは思わないし、セクハラや不倫をすすめている訳では無い。ただもう少しだけ人間らしく、窮屈にならないで生きられないものかと思う。お互いの監視に怯えて不本意な選択を強いられることなく、素直に暮らすことを誰もが望んでいるはずだ。




どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...