2022年1月30日日曜日

あなたは分かってくれますか

 源氏物語の愛読者の中で忘れてはならない人がいる。『更科日記』の菅原孝標女である。孝標女は中流貴族の父の赴任地である東国で生まれ育ち、宮仕えの後は同じくらいの階級の男と結婚・出産・子育て・夫との死別と現実的な人生を送る。

『更科日記』は国語の教科書の中では物語に夢中な少女期の思い出に留まるが、厳密には日記ではなく、夫の死後まとめて書かれた13歳から52歳くらいまで約40年間の回想録である。中流貴族の娘が上流階級の男に見染められる夕顔や浮舟の話に憧れて「私も大人になったら美人になって、髪もうんと長くなるわ」と思い込んでいた。あの頃の自分ってなんて馬鹿で可愛いかったんだろうと笑ったり泣いたりしながら綴ったに違いない。

源氏物語:箒木の巻「雨夜の品定め」で左馬頭が、中流階級で宮仕えなんかしている中でオッと思うような娘がいるもんだよ、と言うシーンは同じく中流出身の紫式部がこっそり仕込んだものだ。孝標女もきっとワクワクして読んだことだろう。年頃の娘もその親も栄達を望んで、男の方も実家の財産を目当てにしてよりハイスペックな結婚を夢見ていた時代でもある。

平凡な日常にもほのかな職場恋愛みたいなやりとりがあり、ちゃんと会話を書き留めているところなど素直な人だなぁと思う。その人に会わなくなった後、京では大嘗会でお祭り騒ぎの日に独りで(と言ってもお付きの人はいるが)プイッと初瀬詣に行ってしまう。その途中、宇治に差し掛かった時すっかり現実の暮らしに忘れていた記憶が、あの少女の頃夢中になって読んだ源氏物語が時を経て蘇る。あぁそうだった、私は浮舟が好きだったと。

京都から長谷寺まで、今は近鉄かJRを使えば2時間程度で着くが平安時代に手車(人力車)で移動すると道中二泊はしなければならない。追い剥ぎ多発地域も通過しなければならず、体力的にも大層な旅行にもかかわらずこの人、2回も出かけている。滋賀県大津市の石山寺へも2回詣でている。心の拠り所を求め仏教への信仰を篤くしたにしても、当時にしては結構アクティブな方じゃないかと思う。

浮舟は八の宮が女御に産ませた子で認知してもらえず、母親の再婚相手である常陸介にも大事にされなかった。宇治で薫に囲われる身ながら匂宮とも関係を持ってしまい、悩んだ末に入水自殺。一命をとりとめるも、財産もなく支える人もないため周囲は言い寄ってくれる男性が居るなら頼りなさいと勧める。世間的な幸せが全てという極めて現実的な選択である。どこへ行っても自分の居場所のない浮舟は、世話になっている横川の僧都の妹尼が初瀬詣に出掛けている間を狙って髪を下ろし出家してしまう。そして弟が来ても、薫が訪ねてこようと頑なに沈黙を保ち続ける。その絶対的孤独を、あなたは分かろうともしないのねと。

孝標女が宇治殿(関白頼道の別荘のち平等院に改築)で「浮舟の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。」のは、空想世界への視覚的な憧れから、人物への感情移入への変化からだろう。華やかな宮廷物語は世俗的な生き方を俯瞰的に見る形で結ばれており、読み手に強烈に問いかけてくる。


どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...