2022年1月27日木曜日

宇治は憂しとも

 宇治十帖の続き、いよいよエンディングにさしかかっている。八の宮の隠し子である浮舟は、浮気な匂宮の情熱に絡め取られて薫の愛人として生きる道を諦め、我が身の詮方なきを憂いて宇治川に身を投げる。

宇治川は琵琶湖からの水を一挙に集めて渓谷を流れ下り、古来より氾濫を繰り返す暴れ川である。今でこそ天ヶ瀬ダムによって水位が保たれているとはいえ、嵐山の渡月橋で見る桂川や三条大橋から北山を望む鴨川の水とは比べようのない激流である。平安貴族の避暑地として好まれたというだけあって今も変わらず風光明媚で、天候の穏やかな日は

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木  権中納言定頼

さながらに清々しい。

他にさしたる建物もなく平等院だけが景観の内にあっては想像を絶する優美な光景であったろう。また宇治川・鴨川・木津川の水を満々と湛えた巨椋池に夕陽が沈む様に人は思わず手を合わせたことだろう。

ところが源氏物語は宇治の自然描写については実にそっけない。本当に行ったことがあるのかと思うほど否定的なのだが、一体何故だろう。近現代の文学作品に見られる自然描写により登場人物の心情を表すという技法がまだなかったからか。あるいはそういう誰でも言うような分かりきったことは書かない主義なのか。終始人物にフォーカスを当てているから、いかに林先生の謹訳と言えども現代の小説と思ってかかると多少息が詰まってくる。

宇治川での入水自殺が未遂に終わり、横川の僧都によって出家を果たす浮舟の心情がじっくりと描かれる。いつか高校の授業で古文の先生が熱っぽく語ってくれたのに、あの時はただただ退屈でうつらうつらと夢の波間に浮かぶ小舟だった。浮舟は最終的に自分の意志で心の平安を得たとして現代女性に共感を呼びやすいと言われるが、本当の作者の意図はそこにあるのだろうか。昭和の女には人気があっても令和の女性にはどう映るのだろう。平安期の結婚形態や女性の地位について現代と比較してどっちが優れているだのを論じるのは無意味だ。また大君亡き後の人形(ひとがた)として飾り物だった筈の女が、きっぱりと自我を主張するところをジェンダー問題にすり替えるのもちょっと違うと思う。最後にこの女性をもって物語を結ぶからには、もう少し読み込んでみたいと思う。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...