2022年3月5日土曜日

だって好きなんだもん

 昨年99歳で亡くなった瀬戸内寂聴の作品が再び脚光を浴びている。奇しくも先日、寂聴さんが出家を志した齢となり、せめて一冊読まなくてはと初期の作品『夏の終り』(瀬戸内晴美1962年 新潮社)を手に取った。作家生命の長さはもちろんのこと、圧倒的な作品の量と質、文化人との交流の広さなど文句なしのスーパースターである。90歳を過ぎたあたりからもうこの人は死なないんじゃないかと思ったが、やはり100歳を前にして鬼籍に入られた。(そういえば宇野千代も「私死なない気がするんです」と言っていた)

それまでメディアで見るばかりの寂聴さんの印象は、やたら色恋話の好きな庵住さんでしかなく、小説はひとつも読んだことがなかった。まだ私が学生の頃、婚外恋愛全否定の母がいい評価を言わなかったという、それだけの理由で避けて通っていたのである。ついこの間まで私の中に母の価値観がへばりついており、何の違和感もなくそれが自分のものであるように感じていた。

もうひとつ理由があるとすれば、これも学生の頃お茶のお稽古を付けてくださった庵住さんの姿と重なったからかもしれない。そのお寺は古い小さな町屋の佇まいで、10畳間ほどの本堂が茶室を兼ねていた。庵住さんはまだ若い頃から先代の住職とお寺を守り、住職が高齢になれば甲斐甲斐しく介護をして看取りまでされたという。ことあればお稽古の人に先代の思い出話をしては墨染の衣で目頭を拭っておられた。

私も22歳になっており、仏門にあってもお二人に師弟の情やほのかな恋愛感情があったところで素直に受け入れられたが、若い頃はさぞ美形であったろう、とにかく70代にしては艶々とした尼僧姿だった。実際にはもう少し濃厚とも思われたが、当時の私にはその辺りがギリギリ許せる範囲だった。色気むんむんの寂聴さんの本を読んだら、庵住さんの顔が浮かんできて勝手な想像が動き出すのではと不安だったのだ。

『夏の終り』は映画(2013 熊切和嘉監督)の予告を偶然目にしたので選んだ。瀬戸内晴美時代の『花芯』と並んで自身の体験に基づいた小説で、代表作に扱われることもある。小説の女は、妻子ある小説家と半同棲を8年、昔離婚の理由となった元不倫相手との再会で奇妙な三角関係に迷う。文章表現の豊かさに反して、実に面倒臭く歯切れの悪い女である。

奔放な恋愛には周囲の犠牲が伴い、覚悟の上でも多くの人を巻き込んで傷つける。恋愛は事故みたいなもので遭ったものは仕方ないという人もあるが、映画のキャッチコピーのように「だって好きなんだもん」で片付けて良いものだろうか。いろんなことの答えが寂聴さんの出家につながったのであれば、出家後の作品にどう影響したか、次回につなげよう。




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