やっと猛暑から解放されたと思ったら10月も終わってしまった。慌ただしく自民党総裁選、衆院選が行われ、さらには首相指名選挙と政治の空白期間に不安しかない。不安というなれば今から50余年前、私が赤ん坊だった頃の日本は沖縄が返還された一方で、ベトナムへ向かう米軍の出撃基地だった。母が里帰り出産で実家に滞在していた頃、川向こうの空港から戦闘機が飛び立つ轟音がすごいので窓ガラスを分厚いワイヤー入りに替えたと言っていた。
祖父の家の二階には叔父の部屋があって、分厚い本がびっしりと並んでいた。叔父は二浪の末に静岡大学で物理を専攻、学園紛争の時代まともな授業がなされたかは分からない。母が下宿を訪ねて行くと、暑いからと裸でフルートを吹いており、味の薄いカレーライスを振るまってくれたそうだ。卒業したものの就職に失敗し1年ほど祖父の会社に勤務していたが、やおら大学に戻りたくなり恩師を追って遠くニュージーランドに渡った。
昭和22年生まれの叔父はいわゆる団塊の世代で、背ばかり高くて身体が弱い。競争の苦手な叔父は中学で囲碁にハマって嫌いな科目は全く勉強しなかったため大阪府内の底辺高校に入学した。その入学式で校長が「おまえらは腐ったイワシだ」と言い放ったのに憤慨、猛烈に勉強しては熱を出し勉強しては腹を下し、毎回入試当日に下痢で早退する憂き目に悩まされた。
1ドル=360円時代、祖父の電線会社の景気が良い時でも当時海外留学させる費用はハンパではなく、航空券も高いからそうそう帰れない。一時帰国の際は学生なのに婚約相手まで連れてきて、たぶん私はその時が叔父と初対面だったのではと思う。次の帰国は新婚旅行を兼ねて3ヶ月くらい日本にいた。祖父とは激しい口論が絶えなかったと母は言うけれど、私には穏やかで愉快で子供好きな印象しかない。一緒に奈良公園を歩き、鹿に餌をやった。
叔父とお嫁さんがニュージーランドに戻る日が来て、空港のデッキで2人の乗った飛行機を家族で見送った。ところが半年も経たないうちに訃報が届く。心臓発作で急死とのことだった。
3ヶ月の日本滞在で実家がそれほど裕福でないことが分かったようで、安い研究員の給料とアルバイトで食費を削って暮らしていたのも健康を害した一因だった。祖父と母が現地に向かうことになったが、慌ててビザを申請しても最短で7日ほどかかってしまい、亡骸は傷みを隠すために化粧が施されていたという。
あれからニュージーランドには2回観光で行く機会があって、ネットの普及やらで南半球も感覚的にそれほど遠くなくなった。今も叔父が生きていたらどんなだったか、何の話をしてくれたろうかと思うことがある。