2020年1月17日金曜日

気候と人の考え方

日本史といえば応仁の乱から安土桃山時代、中国史といえば三国志というくらい、群雄割拠の時代は現代社会に擬えやすいこともあって人を魅了してやまない。

最近は気候変動で歴史を紐解こうという試みもあって、日本の戦国時代は乾燥して日照りが多かったとか、三国志の頃は温暖化の反対で寒冷化が進んで南下せざるを得なかったとか当時の記録と考古学的な調査で少しづつ明らかになってきている。
「三国志」の動乱は実は寒冷化の産物だった気候変動や遊牧民との関係で読み解く中国史

人の考え方も気候や風土によって変化するとの見方もあって興味深い。
記紀万葉の頃は大陸的、平安中期以降は国風文化と言われるが文学的に流行したものだけ残されていると言って良いのではないか。

万葉集は貴族階級だけでなく様々な立場の人の歌が集められているので文学的にも考古学的にも研究材料として注目されつづけている。一般的に為政者の歌は傲慢であっけらかんとしていてドライなイメージがあり、中間管理職の歌はほろ苦く、労働者階級は故郷の家族や生活苦を歌う。

万葉きっての女流歌人といえば額田王であるが女帝斉明天皇の代歌として詠んだ
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
(難波津を出発し伊予の港で停泊していた船団の士気を上げるための歌)が代表格。

百済の王子奪還?えー?なんで同盟国にここまでしてやらなあかんの??みたいな雰囲気もあったんじゃないかと思う。「さぁ、参りましょう!」なんてパワフルな歌も虚しく、まもなく筑紫で斉明天皇は崩御し、代わって政権を継いだ天智天皇による白村江の戦いではボロボロに。半島から亡命してきた渡来人の扱いをめぐって天智天皇VS大海人皇子の争いに発展していく。



どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...