イーストウッドが是非この役を、とオファーをかけたメリル・ストリープ(当時45歳)について他のスタッフは歳を取りすぎていると批判的だったそうだ。中年のイタリア人女性を美形モデルが演じたら全く別の映画になっていただろう。メリルは前年には逃亡中の強盗犯とゴムボートでラフティングする羽目になる映画『激流』で主演女優賞を獲得している。あの筋肉質で精悍な女っぷりと比較すると仕事への本気さを感じてさらに面白い。
『マディソン郡...』を観て良いと思ったので原作の方も読んでみたが、私は映画の方がより精神的で多くの人の共感を得るだろうと思った。小説では写真家の男のワイルドな性格と肉体が女の心を揺さぶる様子がしつこいが、映画ではイーストウッドの味付けなのかその辺はわりとあっさりである。もっとも日本には昔から可愛いものがあふれているので、女性的であったり文学的・ロマンチックなものへの渇望が伝わりにくいかもしれない。
写真家の男がドアを静かに閉めるのを、女が「夫とは違う」と感動するシーンに思わず共感してしまう。最後に男が去る時もやはりドアは静かにパタン、と閉められる。監督のこだわったところではないかと思うのは私だけだろうか。ドアの開け閉めは性格や感情が出るものだ。ガンマンが酒場の扉を開ける、刑事が犯人宅に押し込む場合などは思い切り良く、で構わない。逆に閉める方は勢いよくバタン!といくと怒りの感情や雑な印象を与えるから気をつけたい。
人はそんなつまらぬことで恋をするものだ。一時のときめきを本当に忍ぶ愛にして貫く人生がどれほどあるだろう。結局、旅から旅へノマド的に生きることと共同体の一員として生きることは相反しており、両者の深い溝は埋まらないのだ。簡単に会えないからドラマなのであって、キャストが少々くたびれているが大昔からの普遍的なテーマには違いない。
映画では母親の純愛を理解することで、兄妹が自分たちの離婚寸前の家庭問題を解決していくというハッピーエンドにもちこませているが、小説はそこまで楽観的ではなかったように思う。理解したのは娘だけで、息子の方は最後まで理解できないのが現実的だろう。「だんだん親父に似てきたって言われるんだ〜まいったよ〜」とか言いながら思いっきりドアを閉めているんじゃないかな。私ならそんなエンディングにする。