第155回芥川賞受賞作の「コンビニ人間」(村田沙耶香 2016)を読んだ。古倉恵子コンビニバイト歴18年の36歳。 コンビニ店員であるときだけ優秀な社会の歯車となって生きている実感を得ることができる。家族も元同級生もコンビニの同僚もみな彼女が「普通」であるべきだと言い、そんな周囲を安心させたくて精一杯「常識的」な自分を演出するのだが根本的には何も変わらない。
公園で小鳥が死んでいてみんな可哀想と泣いているのに持って帰って焼き鳥にしようという、男の子同士の喧嘩を止めようとスコップで殴る、ヒステリーを起こして騒ぐ女教師のスカートとパンツを引き下ろして静かにさせようとする等、子供時代の恵子の行動は不可解すぎる。しかも本人は何故悪いのか理解しておらず、ただ親が謝って回り悲しむのを見ておとなしくしようと決め込むのだ。
確かに変わった人ではあるが、全く他人事とは思えないリアリティで迫ってくる。またこうした小説が世で認められることで、自分の中の「異常さ」が肯定されているような安堵感がある。大学を中退して実家近くの学習塾で働き出した頃、怪しげな副業やギャンブルの話に興じる講師たちと過ごし夜中にふらふら帰ってきて、日付が変わってもゲームをしている毎日だった。母は私が自殺するんじゃないかと心配したというが、本人は全くそんな気はなくてただ虚ろに生きており、ちょっと今の心境に近いかなと思う。
誰かのために行動することは実は楽で簡単でことかもしれない。望まれる姿になり喜ばれる存在であることは、自信となり満足感を得ることができる。愛すべき存在の為と思えば自然に出来てしまうもので、頭脳も使わず苦痛も和らぐというものだ。結婚して家族がいて、という常識的な隠れ蓑の中で、ふと素の自分と向き合えば、そこには顔のない中年女が座っている。