2020年12月15日火曜日

暦と祭り

 新型コロナウィルスの影響で来年の初詣は正月三が日を避けた「分散参詣」を、との呼びかけがあった。温暖化の影響か季節感が薄れ、年中行事が大切にされるのは伝統芸能の継承者と、イベントを作らねばならぬ保育園・高齢者施設くらいだろうか。せめて盆と正月くらいは残したいが、それすら自分から何かアクションを起こさないとメリハリがつかない。

おそらく宇宙船の中で何年も暮らすようになったら、最初はなんだかんだと地球のイベントを持ち込んで祝っていてもしだいに実感が湧かなくなってきて、今の暮らしの中から記念日を作っていくのではないかと思う。ただどんなに文化が変わっても、地球が太陽の周りを一周する時間の単位は変わらないだろうし、長年人類が慣れ親しんできた24時間を半分に夜と昼を分ける暮らしは、人工的に作っても継続されるだろう。

もう20年近く前になろうか隣町の地元の夏祭りに親子で出かけたことがあった。大きな川に架かる橋の袂にある古い社であるから、水難から村を守り豊作をもたらす神様が祀られているに違いない。狭い通りの両側に夜店がずらりと並ぶので間を人がすれ違うのがやっとというような具合であった。露天商も全国を回っているプロらしく、わたあめや焼きとうもろこしに混じって焼き鳥や牛串などビールに合いそうなのも充実しており、たい焼きのオヤジの怖い顔も祭りのムードを盛り上げる。値段だって容赦無く高い。角のスナックの前には胸の開いたヒラヒラのワンピースを着た、これまた険しい形相の還暦も過ぎようというのがタバコをふかしている。

翌年には駅前開発で道路は拡張され、露天商は一掃されて広場で役場の職員が地元の産物を売るようになったとか。ストッキングが洗濯ピンチにぶら下がりマネキンが割烹着を着ていた商店の猥雑な妖しさ。いつか見た鞍馬の火祭りだって猥雑そのものだ。ベロベロに酔った男らが尻丸出しの締め込み姿に女物の着物をひっかけて、担いだ松明から火の粉を散らしてぞろぞろ歩く。見たいような見てはならぬような。ざわざわした気分は新日本紀行で松たか子がナレーションするような上品な代物ではない。サイレヤ、サイリョウ。

祭りにはあの世とこの世を行き来する闇があって、ハレとケを分けるのは季節と暦である。だから暦をなくし祭礼を忘れた今、原点に戻って夜空を見上げてみよう。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...