2021年4月30日金曜日

家宝の色紙

 1945年夏、東京の空襲を避けてチヨさんは赤ん坊と一緒に四国高松に疎開した。姑は実母の姉だったから実家のように気兼ねなく過ごせる。チヨさんは私の祖母で赤ん坊は母である。高松が空襲の標的となったのは疎開から間も無くのことだった。米軍の報告書によると、高松を攻撃の目標として選んだ理由として、四国の最重要港かつ軍需産業の主要地であり人口密度が高いことを挙げている。疎開地として最悪なのは言うまでもない。

記録によると7月3日グアム・サイパン・テニアンの4基地よりB-29爆撃機501機が姫路・高知・徳島・高松に向け出撃、うち116機が4日未明高松上空に飛来。午前2時56分から同4時42分まで、焼夷弾などの爆撃を続けた。市街地の約80%が焦土と化し、1359人が死亡している。

チヨさんは赤ん坊を背中にくくりつけ、何とはなしに玄関に飾ってあった色紙を背負い紐の中に突っ込んでひたすら川に向かって走りに走った。長身で俊足なのが幸いし、また橋の上でばったり夫と遭うことができたのは強運である。市街地にあった家は絨毯爆撃で跡形も無くなったが家族を失うことはなかった。

さて件の色紙はというと、江戸後期に三条何某というお公家様より拝領したという情報のみで、詳しいことは誰も知らない。なるほど優美ながら大胆な筆致で書道的には素晴らしい。思うにこのお公家様、何かの事情でご先祖様宅にしばらく滞在、平たく言えば居候されていたのではないだろうか。「麻呂よりささやかな礼じゃ」などと言いながらサラサラと一首お書きになったとしたら、呑気なお公家様が浮かんできてちょっと笑えてくる。都のことを物語りなどしながら瀬戸内の海の幸を美味しそうに召し上がって、ご先祖様も思わぬ出費に苦笑いしつつ楽しい夕べを過ごしたかもしれない。

骨董的価値はほぼ無いけれど、幸運の色紙として持っていれば昔の方々も喜んでくださるのではと思っている。

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