2021年9月10日金曜日

愛をかたちに

お金というものは人の性格を変えてしまうこともある魔物だけれど、有効に使えるならあった方が良いという当たり前の話。金がある時は金持ちらしく、金がない時は貧乏人らしく暮らしなさい。士族は貧しても貪してはいけないと、祖父は親の代からの言葉を機会あるごとに繰り返した。 そうありたい一方で、私は侍でもなんでもないしお金を巡って争う場面に遭遇したら自分がどのように行動するのだろうと不安になる。

例えば相続財産の分配は、時に兄弟姉妹間で金額が親からの愛情を計る物差しになってしまう。法定相続分を1円単位で分けるのだって大変だ。また夫か妻の不倫相手への訴えや、一方的な別れの要求も損害賠償と同じく最終的にはお金で解決することになる。大人の誠意はお金なのだ。逆にお金で解決したらそれ以上一切の関わりを持つことはない、いわばけじめの役割もある。受けた愛情や心理的損害を金額で表すことに本来無理があるのだが、それでも終止符を打って次へ行くには妥当なところで決めなくてはならない。

高価な贈り物を貰って嬉しいという人は自分がそれに相応しい、自分の価値の体現と思うから嬉しいのだろうか。それは送り主の愛を目で確かめたいということなのか、未知の世界なのでよく分からない。そうそう、婚約指輪は無駄な買い物だったがプロポーズの言葉の代用品としてそれなりに嬉しかった。来月の引き落としを自分が見るかと思うと急に現実的になったりするのだが、今はお金の管理を任される信頼関係が一番ありがたいと思っている。

逆に愛を得られない分、贅沢な金品で気持ちを埋めようという場合もあるだろうが、いくらか慰めになっても虚しさはついて回るだろう。お金には匂いがあるのか不思議とたかってくる人が現れて、コスパを考えるとどうしてこの金額になるのか理解し難い支出が生じる。だから金遣いの荒い人が必ずしも豊かな生活をしているとは限らないわけで、靴下一足買うにも領収書が必要だったり決まった店で買い物しなければならないのも気の毒だと思う。税金対策と言って放蕩したかと思うと、すっテンテンで自己破産からやり直すようなジェットコースター人生では、いっそ愛情や食べ物の味なんか分からない方が幸せかもしれない。

先日、馬鹿馬鹿しい悪夢を見た。何かの違反をやらかした私は別室に入るように言われ、そこでゲーム機をあてがわれてクリアしたら釈放するとの指示。コインを入れるところに500円玉が半分ささっており、まぁいいかとそのまま突っ込んだら「それはあなたのお金じゃないですね!」と。汗びっしょりで目覚めて「セコい事しちゃったなぁー」としばらく引きずってしまう。お金の前には自分がいかに無力か、改めて意識した夜だった。甚だ心許ない。



どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...