朝夕がひんやりとして少しずつ秋の気配。
平安時代の和歌や文学を目にすると、貴族階級は本当に優雅で生活感がない。公務もあれば親戚の付き合い、日々の儀式もたくさんあったろうが、本気か戯れか今に残る夥しい恋の歌。恋をしないなんて生きている意味がない、人として信用できないくらい当時の貴族社会では内面が重要に考えられていたかもしれない。
時代が下って鎌倉時代に入ると、新古今和歌集の「三夕の歌」のように季節をしみじみ歌う歌が評価されていく。戦乱や災害による命の儚さや、人心の荒みを目にしない日はなかったからだろう。
「さびしさはその色としもなかりけり 真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)
「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)
しっぽりとうら寂しい静かな風景でありながら、「色」「心」「あはれ」「花」「紅葉」のキーワードに、満開の桜や色鮮やかな紅葉、ひいては心浮き立つ美しいものときめくものへの恋慕が隠されている。やがてひんやりとした夕闇に紛れ、漆黒に消えていく寂しさの中に、人は自分の思いを落とし込むのだろうか。
僧侶の身だし、あるいはもう歳だし、男も女もないけれど、夕闇の中ではかつて確かに存在したものと対話できる。そこでは見えないものが人を人として保たせてくれており、決して退廃的ではない。