2024年5月22日水曜日

灯台守の歌

『灯台守』という小学唱歌を知っている。学校で習うような年代ではないし、何かの機会に聞いたのだろう。Wikipediaによると昭和55年NHK教育テレビ「みんなのうた」で放送されたそうなので、おそらく能登の舳倉島灯台の映像と共に視聴したのではと思う。原曲はイギリス民謡ということだが19世紀アメリカの讃美歌で歌われていた曲とそっくりで、だいたい同じくらいの頃アメリカで歌われていた『仰げば尊し』にも似ている。日本には明治時代「旅泊」「助船」として小学唱歌に入り、戦後は新しい歌詞で『灯台守』として五年生の教科書に掲載された。著作権など無かった時代だから勝手に歌詞をつけたら本家の方で消えていったというような次第ではなかろうか。

例えとしては相応しくないかもしれないが「灯台守」という言葉が、実は私のしている小さな仕事を連想させて好きな歌の一つとなっている。私の関係しているとある団体のホームページには問い合わせフォームが付いているのだが、あまりに関係のないセミナーや営利目的のゴミメッセージが多いために、本来の問い合わせをより分けて本部へ転送している。

そこに来る本来の問い合わせには、育児や障害者支援の真剣な相談も含まれており、夜中に発信されていることが多く相談者は100%女性である。お盆・正月休みや大型連休明けなどは件数が増える。若い世代にとってまずはメールで問い合わせというのが自然であるだけでなく、昼間に直接電話をかけた方が話は早くても、それができない理由がある人には問い合わせフォームが最初の窓口になっている。

対応するのは顔も見たことがないスタッフで、そこからどうなっているのか分からないが誠実に対応してもらっていると信じている。真夜中の不安な闇の中、誰かの行き先案内になっているかどうかは手応えはないけれど、ただ毎日メールチェックしている。


灯台守 (作曲 不詳  作詞 勝 承夫 昭和22年)

1 こおれる月かげ 空にさえて

真冬の荒波 よする小島(おじま)

想えよ とうだい まもる人の

とうときやさしき 愛の心

はげしき雨風 北の海に

山なす荒波 たけりくるう

その夜も とうだい まもる人の

とうとき誠よ 海を照らす 





断捨離の初夏

 祖父が昔買い集めた壺や茶碗、着物の類がいくらかあり、この度欲しがっている人にあげたり引き取ってもらうことにした。といってもこれは私の所有するところではなく、母の実家の問題ではありながら、娘の私の了承は得ておこうということだった。もし私に茶道や生花の心得やいくらか教養があり、セレブな世界とご縁でもあれば譲り受けることもあっただろう。残念ながら今の私がもらったところで全く活用できないのだから仕方ない。もらえないのが残念なのではなく、興味もないのに執着する自分が残念なのである。

母の決めたことであるし何の異存もないのだけれど、もらう側は娘の私が了承しているのか、後で文句言ってこないか気になるらしい。価値が分かる人のところへ行った方がお道具も幸せでしょう、とは言ってはみるけれど100%爽やかでいられるほど人間ができていない。息子らの教育費はアホみたいにかかるし生活費は膨れる一方で、どこまで燃料が持つか自分たち夫婦の老後はと心配し出したらキリがない。けれど余裕があればあったで巣立ちの邪魔になりそうで、分相応の暮らしは死守しなければならない。微妙なバランスでなんとか飛んでいるのに、うっかりボーナスでも出ればたちまち気が緩んで墜落してしまう。

モノもカネも制御できる力がなければ人を苦しめ、吸って吐いてエネルギーを生み出す能力のある者のところでは人々を潤す。力のない者は中継ぎとなって配分する手、正しく使われるか見張る目の役割がある。モノはたくさんのエピソードを宿して空間を占拠するから、カネよりも厄介と言えるだろう。どんどん断捨離で身軽になる母を他所目に、私は貧相な呪縛に絡んだままである。



2024年5月16日木曜日

可笑しくて哀しい

 2024年度上半期の朝ドラは『虎に翼』でヒロインは伊藤沙里が演じている。朝ドラヒロインとしては知名度高めで演技が安定した人を選んできたなと思った。コミカルな役が上手いのでドラマの名脇役的な印象があるけれど、映画にも多数出演している。

映画ホテルローヤル(2020日本:波瑠、松山ケンイチ、安田顕、余貴美子ほか。原作は桜木紫乃、直木賞受賞作。)ではヒロインがやむなく家業を継いだ釧路湿原を望むラブホテルの一室で、高校の担任教諭と心中してしまう女子高生の役だった。コミカルなのに哀しい、コメディの真髄をついていて、往年のチャップリン映画のように無邪気に笑いながらホロリとさせる。

登場人物の誰もが問題を抱えていて、一生懸命なのにどこか笑えてしまう。原作の方がその辺りは描写が細やかだったけれど、雄大な釧路湿原とものすごく寂れたケバケバしい建物の対比は映像の方が伝わったと思う。




気候変動と核戦争

 映画オッペンハイマー(C.ノーラン監督2023アメリカ)が話題なのでどうかなぁと思いながら、重いテーマを3時間も耐えられるかとためらっている。暗い映画館の大スクリーンで観ると内容に集中できるのはいいとしても、本編の前には必ず予告編があってやたら大きな音を鳴らすので、初夏など頭痛の起きやすい季節にはきついものがある。この作品は躁鬱気質の主人公が核兵器開発に携わる葛藤を描いているだけに、こちらまで心の不安定を誘発されそうで、たぶんそれは言い訳でどうもないのだけれど単純に一人で足を運ぶのが億劫である。

このノーラン監督がNHKのインタビューの中で、息子さんにこういう映画の企画があると話したら「僕らの世代では核兵器より気候変動の方が重要な問題なんだよ」と言われて衝撃だったと語っていた。アメリカのZ世代、だけでなく西側諸国の若者がそういう状態であることの危険性を感じながらこの映画を制作したという。確かに気候変動は人類共通の脅威であるし、生死に関わる大きな課題ではあるけれど、たとえ全人類が一丸となって環境問題に立ち向かったところで地震も火山も止めることはできない。太陽がほんの少し輝きを増したり勢いを弱めるだけで、地球上の生物は丸焦げにもカチカチの冷凍にもなるのだ。異常気象でコーヒー豆が不作なのも嘆かわしいが、原爆誕生から80年これまでにない緊張感で核戦争の一歩手前まで来ていることを今一度意識したい。どちらが喫緊の課題なのか、核兵器の扱いはこのままで良いのか。

世界には今も「原爆投下は戦争終結のために必要で正しかった」という意見がある。日本人としてそこはどうしても同意できないが、広島長崎の惨事を訴えることだけで核廃絶を求めるのは不十分に思う。廃絶運動の活動団体は核兵器放棄協定に国の代表がサインをしさえすれば世界平和が来るようなことを言うけれど、そこは決定的に何かが欠落していて論理の飛躍が生じている。人類史上戦争が無かったことはなく、外交の最終手段が武力行使=戦争であるなら、約束や取引の中で最終兵器を作ったり引っ込めたりして危うい時間稼ぎをするよりないのかもしれない。動画配信始まったらオッペンハイマー観ましょうか。



ぼくの好きなおじさん

 やっと猛暑から解放されたと思ったら10月も終わってしまった。慌ただしく自民党総裁選、衆院選が行われ、さらには首相指名選挙と政治の空白期間に不安しかない。不安というなれば今から50余年前、私が赤ん坊だった頃の日本は沖縄が返還された一方で、ベトナムへ向かう米軍の出撃基地だった。母が...