紫の上は結局子供を産まなかった。10歳で源氏に引き取られて寝食を共に、といってもこの時代のことであるが、仲睦まじく暮らしてきたのにである。 教養豊かで可愛く美しく自分にとって完璧な妻に「育て上げた」ので、息子夕霧にも姿を見られてはならぬと大切に大切に扱ってきた、のにである。源氏としては残念な気持ちはあるけれど、子供なら他所で産ませれば良いし、機嫌良くしてくれているならそれでいい。何がなんでもという気持ちがあるなら御祈祷したり子宝温泉にでも連れて行っただろう。もしそうやって子が授かってしまったら物語は実につまらなくなる訳で、紫の上にはとことん悩む女としての使命がある。
父親に認知されていないので源氏とは正式に結婚していない、まともな婚礼もしていない。源氏は左遷先で中流家庭の女性と婚姻関係になり姫君が誕生。脇役たちとの浮気はさておき、皇女に正室の座を奪われショック大のところ男子が誕生しトドメを刺される。ひたすら出家を望むが許されず43歳で病死。
ネガティブ人生といえばそうでもない。明石の姫君を幼い頃から引き取り入内させるべく后教育を施す。やがて女御となった姫君は第一皇子を出産、紫の上は国母の母としての栄誉を得る。また里帰りした姫君の出産を手伝い、生まれた御子たちを盛んに世話してやっている。臨終には中宮となった姫君が高い身分にあるまじき行為ながら直接看取っている。
お腹を痛めた子だから愛情が湧く、完全母乳育児だから愛せる、抱きしめたから親子になれる、3歳までは母の手で、そういった「神話」への挑戦がこの時代にもちゃんと存在している。実子でなくても、哺乳瓶でも、身体が不自由でも、人に預けることがあっても親子は親子になっていくのだ。はぐくむことで不毛だった紫の上の心は救われていく。
源氏物語において女性が出家を望むのは仏教的帰依というより俗世間からの離脱、つまり婚姻恋愛関係からの逃避の意味合いが目立つ。紫の上の場合、臨終の間際に「離婚してください」と言っていると考えるのは拡大解釈だろうか。恋愛小説には男女のすれ違いが欠かせない。ヴィーナスはマリアになって逝ってしまった。