2022年3月23日水曜日

機械にも五分の魂

 携帯電話を新しく買い換える時、皆さんはどうされるのだろう。ガラケーならショップに処分してもらう、子どものオモチャになってバキバキに折られたら小型機器回収箱行きとか。スマホならWi-Fiでネットは使えるとオモチャに与えたら「外でも使えるのが欲しいよー」とか言われるんだろうか。現役で使っている電話と同期させていたらLINEの内容が子供のオモチャ用のスマホに全部反映されてしまい、家族に内緒事がバレちゃったケースもあるとか。とかく通信機器は恐ろしい。

我が家の場合、実は私が使っていた3台のガラケーを除いて歴代の携帯電話が保存されている。もちろんsimカードは抜いてあって電話としては使用不可なのだが、多分電源は入ると思う。アンテナ付き、衝撃に強い、液晶が良くなった、出たばかりのAndroidホン、子供用ガラケー、初めてのiPhone5s、画面の割れちゃったiPhone7、まだあるかもしれない。

携帯電話の基盤には微量の貴金属が含まれているので都市鉱山として無視できない存在らしい。だからではないが役目を終えた電話はバッテリーを抜いて回収箱へ入れるのが循環型社会において望ましいと思っている。しかし夫は絶対に捨てない。というか「まぁええやん。ここ入ったし」と言ってどの引き出しも既にパンパンになっている。

携帯だけではない。仕事でリサイクルに携わっているから流石にパソコンは適宜処分しているが、本当言うと全部倉庫に並べておきたいのだ。もしかしてこれまで乗ってきた何台かの車も置く場所さえあれば並べておきたいのではないか。私がこっそり捨てた学ランについては10年以上経っても時々嫌味を言われる。

捨てられない、捨てたくない。断捨離というのは捨てたいのに捨てられないから苦しんだり楽になったりするのであって、元より捨てたくない人には全く効き目がないのである。「ぬいぐるみには目がついているから捨てられないのよ」と言って人形供養の寺なんかに段ボールいっぱい送り付けたりする人があるという。お寺はそれでお布施が入るから喜んでお経をあげて粗大ゴミに出すそうだ。針・筆・茶筅・箸・刃物・帯・扇などの供養があるなら電話供養があってもいいかもしれない。

最初の携帯から3台目あたりの頃だったか、通信会社は機種変更0円などという謳い文句に客に次々と買い替えを薦め、注文台数をちらつかせてはメーカーに値下げを要求した。メーカーが技術と工夫を凝らして競い合っても、アンテナを立てて派手な宣伝と複雑な料金体系で消費者を欺す方が儲かる仕組みが出来上がった。

どんなものでも壊れるまで使えたら一番いいのにと思う。もうここまで使い倒したらバチも当たらんやろくらいまで使うのが理想だろう。けれど機械は突然言うことを聞かなくなったり、修理するにも部品が無かったり、悲しいかなこちらの思惑通りにはならない。せめて亡骸だけでも並べておきたいのかなとか、あれこれ理解しようとしても、やはり使わないものは捨てた方がいいと思う。

どうせ死ぬんだから

 「どうせもうすぐ死ぬんだから」と老人特有の僻みっぽいことを口にしながら、「年寄りは嫌よねぇ。若い頃はお爺さんやお婆さんがなんでそんなこと言うんだろうってずっと思ってたわ」と母は自分で言って笑っている。続けて「それはね」となかなかに深い話をしてくれた。 長く生きてもやっぱりあの世...