能の修羅物には平家物語を題材としたものが多い。「俊寛」も人気の演目だが修羅物と言っても武将は出てこない。平家打倒の陰謀に加担した罪で鬼界ヶ島に流罪になり、同志二人は中宮徳子の安産祈願のため大赦に預かって京都に戻るが、俊寛だけは赦されず島に一人残されるという話。面も俊寛を演じるためだけの専用の面があり、通常は現世の男性は面をつけないので大変珍しい例なのだそう。
平家物語では俊寛は島で魚や海藻を採ってどうにか生きながらえ、数年後召使いの少年が訪ねてくると信仰心を取り戻し息を引き取る。こんな酷いことをして平家の先々が思いやられる、と作者は平家凋落の布石としているのだが、単なる裏切り者の処分にしてはやや冗長にも思える。
裏切り者といえばその上を行く男、この鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に密告した多田行綱を忘れてはならない。摂津多田庄の武士団を形成した源満仲より数えて8代目、多田源氏の嫡流だ。後白河院の北面武士に登用されたところを見ると、武芸だけでなく詩文・和歌・管弦・歌舞の心得がありさらに容姿端麗だったと思われる。北面武士は白河院が作った制度で下級官人の子弟から選りすぐりが集められた。同時代の西行法師も佐藤義清と名乗っていた頃は北面武士として評価が高かったから、多田行綱もそれに準じていたと想像できる。もっとも平家物語によると後白河院の時代には、集められた若武者の出自は悪くなりモラルが低くなってしまったと散々だ。
鹿ヶ谷の密告の後は平家に属するが、木曾義仲の出現で寝返り摂津で都への物資の封鎖などで逆に平家を苦しめたとされる。義仲が入京し後白河院との関係が悪化すると今度は院側につくが、敗走して多田庄に逃げ帰る。義仲敗退後は源頼朝について義経軍に加わるが、これが原因の一つか平氏滅亡後は多田庄を頼朝に没収され追放されている。
清和源氏発祥の地を頼朝が欲したためとの説もあるが、この経歴から見てあまり信用のおける人物とは思えず、御家人として新しい制度の中で役割を任すには相応しくなかったのだろう。
あんなに俊寛でひっぱっておきながら、行綱の裏切りについてあまり触れないのはどういうことだろう。そもそも平氏打倒の陰謀からして後白河院が首謀者であり、清盛・義仲・義経と情勢に合わせて使い捨てる非情さにも関わらず、その横暴ぶりを批判的に描かれることはない。平家物語の作者がどんな立場の人だったか、誰に気遣いどんな思いで書いたのか気になるところである。
多田神社全景:公式サイト