2020年10月29日木曜日

普通圧力に向き合う

第155回芥川賞受賞作の「コンビニ人間」(村田沙耶香 2016)を読んだ。古倉恵子コンビニバイト歴18年の36歳。 コンビニ店員であるときだけ優秀な社会の歯車となって生きている実感を得ることができる。家族も元同級生もコンビニの同僚もみな彼女が「普通」であるべきだと言い、そんな周囲を安心させたくて精一杯「常識的」な自分を演出するのだが根本的には何も変わらない。

公園で小鳥が死んでいてみんな可哀想と泣いているのに持って帰って焼き鳥にしようという、男の子同士の喧嘩を止めようとスコップで殴る、ヒステリーを起こして騒ぐ女教師のスカートとパンツを引き下ろして静かにさせようとする等、子供時代の恵子の行動は不可解すぎる。しかも本人は何故悪いのか理解しておらず、ただ親が謝って回り悲しむのを見ておとなしくしようと決め込むのだ。

確かに変わった人ではあるが、全く他人事とは思えないリアリティで迫ってくる。またこうした小説が世で認められることで、自分の中の「異常さ」が肯定されているような安堵感がある。大学を中退して実家近くの学習塾で働き出した頃、怪しげな副業やギャンブルの話に興じる講師たちと過ごし夜中にふらふら帰ってきて、日付が変わってもゲームをしている毎日だった。母は私が自殺するんじゃないかと心配したというが、本人は全くそんな気はなくてただ虚ろに生きており、ちょっと今の心境に近いかなと思う。

誰かのために行動することは実は楽で簡単でことかもしれない。望まれる姿になり喜ばれる存在であることは、自信となり満足感を得ることができる。愛すべき存在の為と思えば自然に出来てしまうもので、頭脳も使わず苦痛も和らぐというものだ。結婚して家族がいて、という常識的な隠れ蓑の中で、ふと素の自分と向き合えば、そこには顔のない中年女が座っている。

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2020年10月24日土曜日

鬼滅の湿度

 大人も子供も「鬼滅の刃」の虜だ。ヒットの真相は深夜時間帯のアニメ配信とSNS等々と言われるが、基本的に少年漫画で陰惨さがなく家族愛がベースになっているから、安心してお茶の間で見られる内容なのが大きいと思う。創作民話の世界にアニメ独特のワールドが不器用に混ざっているのが何故か新鮮に感じる。真剣なストーリー展開の中にふざけた部分を適度に食い込ませる手法は日本の漫画の特徴と言えるし、元を辿れば狂言回しがそれに当たり芝居で重要な役割を果たしている。

妖怪と闘う系として手塚治虫の「どろろ」があるが、こちらはどこまでも陰惨なだけにこれからもヒットはしないだろう。アニメも白黒テレビの頃のものだけでなく、つい最近も試みられているから一定のファンはいるらしい。途中で連載を打ち切られて最終回を大急ぎで取りまとめ手抜きな部分は残念だし、最後にどろろが女の子に戻るあたりは手塚のワンパターンを感じざるをえないけれど、始めの場面設定がもう今や差別的偏見的問題にどう対処していいか分からないほどエゲツないのだ。

「鬼滅」の炭次郎は家族を殺されても死んだ鬼に情けをかける少年であるのに対し、「どろろ」の百鬼丸は実の親が妖怪と取引をしたが為にあらゆる身体のパーツを失って生まれてくる。妖怪を倒し身体と同時に憎しみや怒りなどの感情を徐々に取り戻していくという、ものすごくネガティブな救いようのない展開だ。ドライにやればやるほど恐ろしく、どうにも収集がつかなくなったのだろうか。無理やりな終わり方が腑に落ちず、本当はどうしたかったのかなぁと時々考えてみたりする。



2020年10月23日金曜日

命の質量

百年以上前、ある米国の医師が人の死の前後の体重を計測することで魂の重さを求めようとしたという。計測の杜撰さやサンプルがわずか6事例ということもあり完全にオカルトの分野にされているが、それでも繰り返し話題になるのは多くの人に「知りたい」願望があるからと思う。

太く短く花火のように散っていく人もあれば、病弱なわりに細く長い人生もある。新型コロナウィルスでも世界中で多くの人命が失われ経済のダメージも大きいが、戦争ほどには人の心に影響を与えないはずだ。太平洋戦争のそれも戦後のことを断片的に伝え聞くだけだが、異様な高揚感と人間臭さは今とは比べ物にならない。

母方の祖母は戦前、地方都市の優等生で学業・スポーツ・芸術と何をやらせても花丸のつく、美人でない以外は全てを独り占めしたような人だったと聞いている。身長も高いのにハイヒールを履くので、祖父は出かける時はソフト帽を浮かし気味に被ったとか。35歳で結核に感染して亡くなるが、その前の数年間が凄まじい。

昼は幼稚園で働き、休憩時間には3歳くらいの叔父をピアノの上に乗っけて英雄ポロネーズを弾いたりする。夜は社交ダンスを習いにいく。子供は妹に任せて毎週ホールで踊ったりする。戦後なのに豪勢な新年会とか誘われたりする。週末は電車で夫の入院するサナトリウムへ見舞いにいく。お土産は持ち込んだ蓄音器でかけるレコードや油絵の画材や画集。どこにそんなお金があるのか、病院で迷惑じゃないのか、子供はどうなってんだ、どこからそんなパワーが湧いてくるのか。

戦後に文化芸術を渇望する空気の中に、どうせ死ぬんだったらという諦めが後押しして爆発的エネルギーが出たのかなぁなどと考える。自分とは真逆で伝説の人である。



2020年10月19日月曜日

岐路に立つ

いわゆる更年期ど真ん中にいる。この歳になるまでに蓄積した性教育の知識を役立てたいと思いつつ、伝えたい相手がいないのがもどかしい。息子には刺激が強すぎるし娘はいない。

女性は胎内で既に一生分の卵細胞を持って生まれ、初潮から基本的にひと月に1個ずつ卵子をつくる。1回1ダースくらい細胞が出てきて成長の良さげなのが1個選ばれ、あとはその栄養になるという。

卵巣から飛び出した卵子は受精すると細胞分裂を繰り返しながら子宮粘膜に潜り込んで根を生やし、受精しなかったものは剥がれた子宮粘膜と共に排出される。若くて身体が整っていなかったり歳をとって無排卵月経の時もある。妊娠中はもちろん月経そのものがないし授乳期が長いと開始が遅れる。卵細胞の賞味期限は35歳くらいで消費期限には多少個人差がある。

たぶん私は数年以内にフェードアウト的に閉経ということになるのだろう。初めは発育不全、妊娠・授乳期も長々とおやすみしてきたので平均的な女性よりは楽であったのかもしれない。望むと望まないに関わらず繁殖期の女性は毎回、妊娠したかY/N の選択をしている。Yに進んだら、直ちに妊娠を継続するY/Nの選択肢があり、どちらに進んでも分娩台で痛い思いが待っている。

母子保健法では妊娠がわかると速やかに役所へ届けることが義務付けられている。遅れても構わないが母子健康手帳の交付により様々な特典があり、胎児(胎芽)は守られるべき国の民と認められる。今月遅れているかな…でほぼ妊娠3週、検査薬で線が出るのは4週以降、5〜6週でつわりが出る。薬や飲酒、喫煙の影響が最も出やすいのはこの初期段階だ。何らかの原因で自然に流れることもよくある。

5週といえばエコーでみると心臓はまだ2室だけどしっかり拍動しているし手足の原型も。私の最初の妊娠は残念ながら心拍が確認できず、流産処置をした。基本的には人工中絶と同じで全身麻酔後、器具で子宮口を広げて大きな耳掻きみたいなので内容物を取り出す。

これが妊娠継続していて12週を超えてしまうと薬で陣痛を起こして出産と同じ処置となるから危険度も増す。妊娠4ヶ月、体長は6cmもう男女の区別もあり手指もできてヒトらしくなってくるという。12週以降は死産届、出てきて少しでも生きていたら出生届と死亡届を提出する。実際中絶手術で出てきた胎児が声を出すこともあるらしい。

さらに妊娠継続Yを選択すると出生前診断を受けるY/Nの選択肢がある。ダウン症をはじめとする染色体異常を早期に発見するねらいがあり、結果として妊娠継続Nも選択肢に含まれる。

どの選択肢をすすんでもそこには誰かいる。その人を一人にしないでと願う。


2020年10月11日日曜日

重荷というも思いなり

むかし祖母が「今度のひらきはおもに」と言ったことがあって、その頃は何のことやら全くの謎。後に「披キは重荷」と教えてもらったが、まだまだ解説が必要だ。つまりかれこれ20年ほど習いに行っている観世流の謡教室で、定期的に発表会らしきことをするにあたり、主役として謡う曲が「恋重荷」(こいのおもに)に決まったということらしい。本当に室町時代に書かれたの?と疑うほど艶っぽいタイトルだが内容は渋い。

本来、披キは能楽師が初めて難曲や大曲を演じることで、一定の技量を持ったことを周囲に認めてもらうためのお披露目の意味合いを持つ。素人の披キは、祖母のように謡だけ習っている場合はシテの部分を留袖で正座して謡う。本物の能舞台で先生方の地謡と囃子方がつくから、お礼だの何だの揃えると大変にお金のかかる発表会である。

さて室町時代から一度演じられなくなって、また江戸時代に復活したと言う「恋重荷」という曲。似たような話も他にあるのでご存知かもしれないが、あらすじを簡単に。

菊の好きな白河院のお庭で花の手入れをしていた山科の荘司という老爺。ある日お屋敷で女御の姿を目にして以来、ぼーっとして仕事も手につきません。女御の従者が言うには「そこに用意した綾錦で包んだ荷を持ってこの庭を百度、千度回ったら姿を見せるとあるじは言っておられるぞ。」「庭仕事には慣れておりますゆえ」と勇んで手をかけてもびくともせず。見かけは軽いが中身は岩。諦めるどころかお姿をいま一度見んと挑むこと数限りなく、終いに絶望し女御の酷い仕打ちを恨みつつ息絶えてしまう老爺。その亡骸に悼みいる女御、とたん身体が動かなくなり鬼と化した老爺と向き合います。死んでもなお地獄で苦しんでいると女御を責めながらも、いつか恨みも雪のように消えてしまうだろうと去っていきます。

姫小松の葉守の神となりて 千代の陰をまもらん 千代の陰をまもらん

復活前の演出では「お前に俺と同じ苦しみを与えてやる!」とばかり、担いできた荷で女御を押さえつけるとか杖で叩きのめすシーンがあったとか。江戸時代以降は、世阿弥の趣向ならば残酷シーンはない方が良いと控えめな表現になっている。一方的な恋が最終的に静かな愛に変化するところは現代人にも受け入れやすい。

この曲ではシテ(山科の荘司)の心情でが全てであって、ツレ(女御)については酷い女だとか身分差・年齢差がどうだというのはあまり重要でないと思う。ズバリ男の恋についてどうよ?超格好悪いのも格好いいだろ?みたいな。祖母にとっての女御はやっぱりセンセだったのかなぁ(爆)



2020年10月9日金曜日

はじめに言葉ありきでもない

前回スキンシップにおける夫婦の温度差について書いた。空気のような存在でお互い必要としている日本人的夫婦の実態をもうひとつ言うと、はっきりしたプロポーズの言葉を聞いたり言ったりした覚えのない人、少なくないのでは? お見合い結婚で結納を交わして形式的に挨拶するものであった時代の方は、自由恋愛ならプロポーズはあって然るべきと思われるだろうか? 

私に関していえば、夫からハッキリした言葉を聞いた記憶がない。それについて不満があるわけでは無いが、何となくゴニョゴニョと「結婚しようよね」みたいな流れになったのは、いかにも日本人らしいナイーブな男の甘えた心情の顕れだ。こんなものは他の先進国では通用しないし、それを許してしまう女も浮かれた馬鹿とも言える。

そんな曖昧なことなのにホテルのチャペルでにわか信者にさせられて、牧師に言われるまま永遠の誓いにサインをする。西洋文化では結婚は契約だから、当然違反すると罰則がという流れが自然と生まれる。病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛せなくなったらどうなるの?

恋愛が二人だけの世界のうちは気楽で自由だ。お互いに帰るところがあり、経済も別だから単純に気持ちを確かめ合うだけで良い。これは婚外恋愛にも言えることで、いいとこ取りだから楽しい。ゆえに世間ではズルをしているという認識で不倫と呼ぶ。いずれも言葉とスキンシップが重要な役割を果たす一方で、前者はさらなる展開の可能性があり後者は終わりに向かっている。それがどんなに有意義で良い関係であったとしても。

はんこレスの動きに婚姻届も離婚届もオンラインで随時提出できるようにする案が出ているそうだが、あまりに簡便すぎるのもどうだろうか。日本には戸籍制度だってあり、人の一生を左右する大切な手続きだけに、今一度「結婚」という言葉とその意味を問うてみたい。





言葉だけでいいのは神様だけ!?

実家の母にスマホを用意したが、フォントを最大にしても扱いにくいとあまり使っていないらしい。もっとも外出することがめっきり減ったから、伯母とのSNS通話専用機と化している。その一方でタブレットの方は大変愛用してくれていて、私にもこの動画見ろとか勧めてくる。

「考えさせられたー」「あんたも気をつけなさいよ」みたいな感想付きでおすすめに挙がってきたのがこれ。日本でアメリカ人男性と出会い、結婚して向こうで20年間暮らし一男を儲けたが最近離婚して京都に帰ってきた女性keiさんの動画。


keiさん曰く「20年も連れ添った夫婦なら空気みたいな存在になるものだ」。私も、日本人なら共感する人も多いだろうと思う。keiさんの元夫は「君から僕の身体に触れてきたことが一度でもあったか?」と言って妻が長年にわたりスキンシップを拒否してきたと主張、何度もカウンセラーを挟んで話し合いの結果、離婚に至ったという。keiさんは京都に帰ってきて息子を国際高校に入学させ小さなアパートで暮らしているというが、元夫の孤独な老後を心配し彼の両親のことも必要であるなら手伝いに行くとまで言っている。コロナが落ち着いたら彼を日本に呼んであちこち連れて行ってあげたいし息子との交流も頻繁にさせたいそうだ。なのにもう男女の関係でなければダメだというなら一緒に暮らせないという。いや、元夫さんこんな素敵な人に去られて辛いであろうにそれでもスキンシップがないとダメなのか??自分にとっては些細なことでも夫にとっては重大なことだったとして、離婚には後悔していないそうだ。

この動画には10月9日現在200件近いコメントが寄せられていて、中には同じ経験をしたか現在進行形で苦労している人も多い。その他、元夫に同情する人、国籍人種には関係ないという人など反応は様々だ。果たして私はどれに該当するのか。育ってきた環境が影響してか、夫婦は空気みたいな方が長続きするものと思ってきたが、それは夫婦の温度差がないことが前提なのかもしれない。

2020年10月4日日曜日

不倫はなぜ不倫なのか

婚外恋愛、いわゆる不倫について最も目にするのは芸能ニュースだろうか。昨今の著名人、芸能人の不倫バッシングには目に余るものがある。清廉潔白で家庭を大事にするイメージが壊れたと言ってスポンサーが契約を打ち切るのは分かるが、関係ない人たちが寄ってたかってその人の家族を傷つけキャリアまで奪ってしまう。そんな権利はどこにもないが人権侵害だと言っても相手にされない。なのに現代版姦淫罪による世間の報いが如何に厳しかろうと、抑止力になるどころかむしろ助長しているのではとさえ思う。

『人はなぜ不倫をするのか』 (SB新書 亀山早苗 著)によると、不倫は生物学では当然のことであり社会学でも仕方のないこととまとめている。著者の考えに沿った意見を集めているともいえるが、どのような動機であれヒトは生物として不倫するように出来ているという。

ではどうして不倫はダメなのか。一夫一婦制が有る限り無くならないなら根絶は不可能だし、無駄な努力である。だからといって野放しにしたのでは社会の規範がゆらぎ、財産権や親権の問題が生じ、不倫当事者は大変不利な状況になる。幼い子供は親が不倫することで家庭の安定を失う可能性があり、場合によっては生命の危機に晒される。不倫はやはり避けられるならば避けた方が個人と社会の安定という面で効率がよろしい。

脳科学の先生は不倫が一種の快楽を伴うからやめられないという。麻薬やドラッグと同様、依存性があって自分の意思では止められないなら厳しく取締るよりないのかもしれない。もらったお菓子に大麻が入っていて間違えて食べたケースでさえ日本では厳しく取り調べられるだろう。間違えて嵌ってしまった婚外恋愛も例外ではないという考えだ。

個人的には不倫を容認する風潮が強まっている一方で、それを棚に上げて他人の不倫を糾弾するとは何とも窮屈なことと思う。結婚制度への疑問や容認無き社会に、おそらく少子化に歯止めはかからないだろう。

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ぼくの好きなおじさん

 やっと猛暑から解放されたと思ったら10月も終わってしまった。慌ただしく自民党総裁選、衆院選が行われ、さらには首相指名選挙と政治の空白期間に不安しかない。不安というなれば今から50余年前、私が赤ん坊だった頃の日本は沖縄が返還された一方で、ベトナムへ向かう米軍の出撃基地だった。母が...